狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

明治から敗戦まで77年、敗戦から今日で77年。

TBSラジオ『荻上チキ Session』で玉音放送を流していました。玉音放送収録と、それを妨害しようとする兵士たちの物語はぜひ半藤一利『日本のいちばん長い日』(新潮文庫)か、その作品を原作とした同名映画──できれば岡本喜八監督作品──をご覧ください。

玉音放送で、天皇は「日本は負けた」というふうに明確に言いません。「時局ヲ収拾セムト欲シ」とか「米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」と述べるのみ。ラジオの玉音放送だけでは日本が負けたとわからなかった庶民は多かったそうです。8月15日を敗戦記念日ではなく終戦記念日と言い換えるようなことが、すでに始まっていたのかもしれません。

本日、何人かの閣僚が靖國神社に参拝したとのこと。

40年くらい前までは、戦争体験者が多く、「日本の繁栄は戦争で亡くなった人のおかげだと信じたい……が、じつは彼らは犬死にしたのではなかったか」と思い悩んだり、戦争で生き残って繁栄を謳歌する自分に負い目を感じる人がいました。複雑だったのです。しかしいつからか、政治家ふくめ多くの人が「現在の日本の繁栄は英霊のおかげである」と単純化しました。かねがねマズい傾向だと感じていましたが、『荻上チキ Session』の最後に荻上氏がそういった言説は間違った解釈を生むといった意味の発言をしました。

戦争がなければ、戦死した兵士(6割は餓死とも言われる)や、空襲・沖縄戦・原爆などで犠牲になった人を救えたかもしれません。帝国主義化してアジアに進出し、ウルトラナショナリズムに煽られて戦争をしたことは繰り返してはなりません。

そもそも戦争はどんな指導者のもとにおこなわれたか。半藤一利・保阪正康『賊軍の昭和史』(本がいますぐ見つからない)に、官軍藩の出身者は成績が悪くても軍のなかで出世したと書かれていました。官軍の政治家や軍人が始めた太平洋戦争を止めたのは、たまたま賊軍関宿藩(千葉県)出身の鈴木貫太郎が総理大臣だったおかげだ、とあります。終戦時の海軍大臣・米内光政、海軍大将・井上成美も賊軍・仙台藩でした。

戦後、すべてが変わったわけではありません。政治の中枢にいるのはいまだに薩長の世襲政治家(参考・家系図→MAG2NEWS 2016/8/8)ではありませんか。つまり、1945年の敗戦は、彼らの先祖の大失敗といえます。日本の学校が近現代史をやらないのも、むべなるかな。賊軍藩の政治家よ、がんばれ。

今年は明治154年。敗戦は明治77年でした。つまり、明治から敗戦と、敗戦から今年の長さが同じなのです。白井聡は『国体論』で「戦後の国体」が終わると予言していました。当たるか当たらないかわかりませんが、いろいろと地殻変動が起きている気はします。

──走る時間がとれなかった8月15日。

『パラサイト 半地下の家族』

あたくしが会社勤めをしていたときによく行った中華料理屋の話です。20代のお腹すきすきマンだった私は、「チャーハンとラーメン」と頼むことがありました。店主のおじさんが「今日は半チャンラーメンの日じゃないんだよ」と必ず返します。

店に日替わりのサービスメニューがあり、週に一度「半チャーハンラーメン」でした。私はチャーハン一人前とラーメン一人前を頼んだのですが、店主は「半チャーハンラーメン」を頼まれたと勘違いしたのです。しかたがないので、いつからか「全チャーハン全ラーメン」と頼むようになりました。すると、店主は「あいよ」と鍋を振るのです。

ある日、私が「全チャーハン全ラーメン」と言ったら、隣に座ったおっさんが「俺も全チャーハン全ラーメン」と言ったからムカツきました。おじさん、あれは俺のオリジナルだぜ。

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おっと、半チャンではなく半地下の話なのでした。

ポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』(2019)をNetflixでやっと視聴しました。公開されてすぐに見に行くつもりだったんですが、カンヌやアカデミー賞を受賞し、メジャー作品を敬遠するへそ曲がりな私が逡巡しているうちにコロナ騒動になり、見そびれていたのです。

出演 ソン・ガンホ、キム・ギウ、キム・ギジョン、チュンスク、イ・ソンギュン、チョ・ヨジョン、チョン・ジソ……とネットの情報を見て書いてますが、ソン・ガンホとチョ・ヨジョンしか知りません。ちょこっと、パク・ソジュンが出ています。

よくできた作品だと感じました。半地下の部屋に住む貧乏家族が、地上に住む富豪の家に寄生(パラサイト)するブラックコメディと聞いていましたが、もうひとつ、全チャーハン、いや、全地下に暮らす人も登場するのが、面白いアイデアです。ポン・ジュノ監督は、社会問題を戯画化・エンタテインメント化して描くタイプなのかもしれません。これ以上ストーリーを書いてはネタバレになりますが。

世は新自由主義。日本の格差問題も、なんとかしないといけません。岸田政権、新しい資本主義とか「聞く力」というなら、税金の応能負担と再配分を。

台風8号

土曜日は、台風8号が東海〜関東を通過するらしい。金曜日の夕方、雨がやんだ時間帯に健康ジョギング。写真のような空でした。この後、どんどん暗くなりましたが。

秋分の日までに、体重を 65kg 未満にする予定の私、毎朝、体重計に載ります。今は、前日より減ていれば夕方か夜に6km、増量していれば7km 走ることにしています。一週間ほど前に 65kg 台に突入しました。油断したわけではないのですが、すぐに 66kg に戻り、徐々に 66.5kg(8月11日)まで上がっていきました。つまり、毎日のように7km 走っていたわけです。本日12日にふたたび 65kg 台に戻ったため、走る距離は 6km でした。ほほほっ。

台風の影響か、西風が吹いていて体感温度はそれほど高くありません。次第に暗くなり、横殴りの雨が吹き、4km 過ぎたあたりで、ピカッと西の空に雷光が。雷は近くなさそうですが、土砂降りになりました。なんとか6km 走って終了。

TJAR(トランスジャパンアルプスレース)2022に参加している友人が心配です。

原爆下での対局

原爆下での対局。囲碁界では有名かもしれませんが、私は十数年前に橋本宇太郎『囲碁一期一会』を読んで知りました。

同書は「なにわ塾叢書」と銘打った新書シリーズの1冊で、橋本宇一郎を聞き手がインタビューする形式で講義した記録です。(同シリーズは、南部忠平『私のスポーツ人生』、藤沢桓夫『回想の大阪文学』、早川良雄『虚と実のはざまで』を読んでます)。

本題に入りましょう。ほぼ「第一回講義 原爆下での対局」を参考にしています。

1945年のこと。

第3期本因坊戦は橋本宇太郎本因坊に岩本薫七段が挑戦しました。同年5月25日に日本棋院が空襲で焼けてしまいましたが、広島に疎開していた橋本の恩師・瀬越憲作八段が、「本因坊戦の灯を消してはいかん」と奔走し、同地での開催を手配しました。時局柄、主宰の毎日新聞社は難色を示しましたが、日本棋院広島支部長・藤井順一の家で対局する運びとなりました。藤井宅は、広島市材木町(現・中島町)にありました。

東京から広島に行った岩本七段は名古屋の空襲などで移動に苦労し、6月中頃から始める予定の七番勝負は7月下旬まで延期されました。橋本本因坊は疎開先の姫路から広島入りしています。

第1局は、7月22日から3日間おこなわれました。対局が始まる前日、広島県警の青木重臣第一部長は橋本の内弟子・三輪芳郎君を呼び出し、「もし対局が始まるようだったら、すぐに電話をしてほしい。警察としては直ちに中止するように命じる。そのように心得ておいてほしい」と言ったそうです。弟子からその話を聞いた橋本本因坊は瀬越八段と相談し、青木氏の言葉を無視して強行したのです。結果、挑戦者・岩本七段が勝利。

第2局は8月4、5、6日の予定でした。

県警の青木氏は第1局断行を怒らなかったようです。ただ、《「二局目はあそこで打たないようにしてほしい。すでに私のほうで手配して五日市の津脇勘市さんにお願いしてありますから」とおっしゃるんです。と言いますのは、広島が非常に危険な状態にあることを情報でご存じだったんです。》(p.22)

藤井氏はこの対局のために疎開先から道具を持ち帰ったり酒や料理を用意し、対局の手伝いのため家族も戻ってきていました。対局場を変更することに藤井氏は立腹しましたが、結果的に一行は五日市駅近くに移ります。

津脇勘市は中国石炭の社長で、佐伯郡五日市駅前にある同社の寮で第2局が行われたようです。対局場は爆心地から直線距離で約8.5kmでした。高台と書かれていますが、おそらく記憶違いでしょう。

橋本本因坊がリードして迎えた3日目、8月6日の朝になりました。対局場にいたのは、橋本・岩本の両対局者、瀬越、三輪、広島のアマチュア強豪・矢野の5人でした。

橋本(……)碁盤の前に座ってちょっと横を見ると、眼下に瀬戸内海が開けていて広島市まで見えました。しばらくしますと空襲警報が解除になりました。それで昨日までの碁を並べ始めました。そのときに空襲警報が解除になっているのに、一機だけ飛行機が広島市の上を飛び回っているんです。誰が言ったのか忘れましたが、おかしいな、と言いましてね、みんなでしばらくそれを見ておりました。そのうちに落下傘がパッと開いたのが見えました。故障か何かでパイロットが飛び降りたんじゃないか、というようなことを言いながら見ておりましたけれども、ものすごくゆっくり降りてくる。いつまで見ていてもしようがないから、少し並べかけたときでした。部屋が真っ白になったんです。ちょうどマグネシウムを焚いたときの感じですね。それからしばらくして、ドーンという音と一緒にものすごい爆風が飛びこんできました。
  (……)
橋本 パッと光ってからしばらくしてドーンと来ました。もう部屋はめちゃくちゃです。窓ガラスは飛ぶし、鴨居は落ちてきますしね。私は慌て者とみえて、一瞬の間に庭へ出ていました。気がついたらね。

爆風でめちゃくちゃになった部屋を片づけて対局は続けられ、午後3時過ぎに橋本本因坊が勝利。その後、あらためて広島の惨状に気づきます。瀬越八段の息子と甥が亡くなりました。七番勝負はいったん中止となり、岩本七段は郷里・島根へ(『囲碁一期一会』には「岩本さんは郷里が山口ですから」と書かれています。山口経由で山陰に帰省したのかもしれません)に帰り、橋本本因坊と三輪君は姫路を目指し、まずは広島駅に降り立ちます。生々しい被害の状況を見た2人は、軽い原爆症でしばらく苦しんだようです(原爆症に軽重があったことは、柳田邦男『空白の天気図』で知りました。ぜひ読んでほしい傑作ドキュメントですけど……怖すぎて、自分は2度と読めません)。

材木町の対局場を提供した藤井氏は家族はじめ十数人は犠牲になりました。藤井家のあった材木町は爆心地に近く、全滅して今は平和公園になっています。そのことに橋本氏は負い目を感じていました。

青木重臣部長はなぜ材木町から対局場を移したのでしょうか。

青木さんは広島県警の部長でしたから、いろいろな極秘情報も知っておられたと思いますが、具体的にどうだったというようなことはお聞きしたことはありません。お兄さんが青木一男さんといいまして、大東亜省の大臣をなさった方です。

と、この程度しか書かれていません。青木重臣は戦後愛媛の県知事になったそうです。

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ここからは本題と関係ないメモです。

広島駅で電車が動かないことに困っている橋本宇太郎と三輪君を、アマチュアの矢野氏が芸備線(県北に向かう路線)甲立駅の山崎という旅館に案内したそうです。橋本氏と三輪君は2泊しました。

旅館の主人はアマチュア広島一の腕前で、碁を指南してくれと頼んできました。橋本氏自身は疲れて打つ気がしないから三輪君に頼んだら、置き碁ではなく先二(下位者が先手、先手、2子局で打つハンディキャップ=三段差くらい)で打ち、三輪君の負けが込んだ、とのこと。《じつは、ここは将棋の升田幸三さんの郷里でして、ご主人の話によれば、升田さんに将棋と囲碁を教えたのは当のご本人ということでした。升田さんは碁も強かったですものね》と橋本氏は述懐しています。

8月6日と、丹下健三の直線

8月6日は、広島の原爆記念日。

私は広島出身ですから、小学生のころから多くの写真や証言、資料を目の当たりにして、トラウマになるほど強いショックを受けました。毎年、同じような平和式典とテレビ特集が画面から流れてきます。

変化がないわけはないのです。昨年は菅義偉元首相が、挨拶を飛ばして読んでしまうというハプニングがありましたし、テレビ特集はショッキングな写真や映像を避けてマイルドになっていきます。どんどんフェードアウトしていっているのかもしれません。

──なぜ日本に原爆が落ちることになったのか?

──ポツダム宣言を直ちに受理していれば原爆投下はなかったのではないか?(かつて、安倍晋三元首相は「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかり叩きつけたものです」「ポツダム宣言をつまびらかに読んでない」などと発言しました。ポツダム宣言が発せられたのは1945/7/26、原爆投下は同年8/6と8/9でしたし、ポツダム宣言はそんなに長い文章でもありません)

──原爆や空襲など日本の被害ばかり強調されるが、加害を取りあげないのはなぜか?

歴史を学ばないと、同じ間違いが起きますよ。

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話を換えます。

上の写真、慰霊碑と原爆ドームが一直線に並んでいることがわかります。

吉見俊哉『五輪と戦後』で、丹下健三がどういうふうに広島平和公園の設計を計画したか、書かれていました。

1940年代、大東亜建設忠霊神域計画というものがありました。東京から富士山麓に向けて大東亜道路を造って首都機能を分散させる構想で、富士山麓には丹下健三デザインによるシンメトリーなモダニズム建築風の神社を建築する壮大な計画でした。結局、幻となった計画ですが、スケールは小さくなったものの、同じことを丹下は広島で実現します。

下の写真をご覧ください(平和公園に面した平和大通りは、全国都道府県対抗駅伝のスタート・ゴール地点です)。

丹下健三は、平和記念資料館ふくめた建築物の真ん中から、慰霊碑、原爆ドームを一直線に伸ばしました。大東亜建設忠霊神域計画と重複され、早くから批判されていたようです。井上章一は《(略)日本ファシズム下で構想されていたもが、そのまま戦後の平和と民主主義のシンボルとして実現し》たのだと指摘しているそうです。人類の平和の象徴たるべき施設が、帝国日本的の象徴と重なってしまうとは。

広島は一大軍都でした。川に挟まれた平和公園はかつての住宅地、原爆ドームは産業奨励館ですが、広島城のお濠の内側は第5師団司令部があり、お濠の外には軍の施設がぐるっと配置されていました。旧広島市民球場は西練兵場の一部であったはずです。軍事施設が、戦後、スポーツ施設や公園──市民憩いの場所──に転じるのです。大東亜建設忠霊神域計画が平和公園になるのも、似たようなものかもしれません。

丹下は、空間に敷いたラインを、基町のほうまで伸ばしたかったそうです。しかし、旧広島市民球場の膨らみで寸断されていました。青少年センター(白い建物)との間の道は昼間でも暗かったことを記憶しています。

平和記念公園が1954年開園、市民球場が1957年に完成していますから、都市計画として、丹下の計画は球場建設とは別ものだったのでしょう。カープは戦後復興のシンボルでありましたし、野球中継のたびに原爆ドームが映っていたのはよかったと思いますけど、丹下の構想とは外れていたのです。

現在、旧広島市民球場跡地整備等事業が計画されていて(→広島市)、慰霊碑から原爆ドームを貫き県立総合体育館にぶつかる直線は「平和軸の継承」と名づけられ、両側に桜を植えたプロムナードとして整備されるのだとか。ふむふむ。あの直線が、70年の時を経て少し伸びるんですね。

 

ユクスキュル『生物から見た世界』

「花が美しいのは、花粉を運んでくれる蝶や蜂を招くためだ」という文章に何度か出くわしたことがあります。「まさか。花の美醜は人間が評価しているだけで、虫はそんなこと考えてないよな」と思っていました。花の多くが鮮やかな色の花弁をもつのは、茎や葉の緑や土の色とコントラストをつけて虫をおびき寄せるためでしょう。

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ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』(岩波文庫、日高敏隆・羽田節子訳)は、虫や動物の「環世界」について書いた1冊でした。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864〜1944)はエストニア出身の生物学者。研究仲間のゲオルク・クリサートが挿絵を担当しています。『生物から見た世界』の初刊は1934年とのこと。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に出て来て興味を持ったのですが、生物学の古典なんだそうです。岩波文庫版は2005年初版で、私が買った本は28刷でした。

一言でまとめると、虫や動物は人間と同じように世界を認識していない、それぞれ独自の感覚で世界(環世界)を把握して生きている、という内容でした。たとえば、人間は注意して見ると蜘蛛の糸を視認できますが、解像度が低い視力の虫は糸を見分けられないからひっかかってしまう。──もちろん、人間が優れているという話ではありません。念のため。

人間は、1秒に18コマの映写を見せられると動画として認識するそうです。また、1秒に18回皮膚をトントン叩かれると1つの刺激として感じられるそうです。闘魚ベタの場合は1秒に30コマ、カタツムリは1秒に4コマで連続した動画であることを実験で明らかになっているとのこと。つまり、虫や動物によって、瞬間の長さが違うんです。

もちろん、人間一人一人も環世界が違うと言えましょう。

ユクスキュルの話は、世界を認識するとはどういうことか、主観とは何か……という問題につながります。現象学とも親和性が高そうだと検索すると、フッサールやメルロ=ポンティとともに論じられているようです。

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《ミツバチは星型や十字型のような先の開いた形を示す図形に好んで止まり、反対に、炎や正方形のような閉じた形をさけることがわかった》とあります。つまり、咲いた花とつぼみが入り交じった野原にいるミツバチは、星型の(=咲いた)花と丸型のつぼみを見分けているのだそうです。少なくともミツバチにとっては、美しさより形が重要なんですね。

初めて10km走ったよ

7月30日夕方、10キロ走りました。

新型コロナウイルス流行により徐々に走る習慣がなくなりました。かねがね「過去の走歴をすべて忘れてリスタートしたほうが楽しかろう」と考えていたのです。1度でいいからフルマラソンを走ってみたいなあ、と思いながら、ちょこちょこ土手を走っていた15年くらい前に戻りたい。

その意味で、コロナ流行はいいチャンスでした。6月21日から、距離は短めですけど、ゆるジョグを始めました。だいぶん初心者感覚になったように感じます。

「今日は初めて10キロ走ったよ!」

2度目の初心者は、1度目の初心者に比べて走ることに関する知識が多いのが特長です。とくにフォームは前と全然違います。

写真の1枚目は、雲の影が面白くてスマホで撮影。このまま反薄明光線にならないかなと後を振り返りながら走っていたら、2枚目のように綺麗に影が伸びていました。