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原爆下での対局

原爆下での対局。囲碁界では有名かもしれませんが、私は十数年前に橋本宇太郎『囲碁一期一会』を読んで知りました。

同書は「なにわ塾叢書」と銘打った新書シリーズの1冊で、橋本宇一郎を聞き手がインタビューする形式で講義した記録です。(同シリーズは、南部忠平『私のスポーツ人生』、藤沢桓夫『回想の大阪文学』、早川良雄『虚と実のはざまで』を読んでます)。

本題に入りましょう。ほぼ「第一回講義 原爆下での対局」を参考にしています。

1945年のこと。

第3期本因坊戦は橋本宇太郎本因坊に岩本薫七段が挑戦しました。同年5月25日に日本棋院が空襲で焼けてしまいましたが、広島に疎開していた橋本の恩師・瀬越憲作八段が、「本因坊戦の灯を消してはいかん」と奔走し、同地での開催を手配しました。時局柄、主宰の毎日新聞社は難色を示しましたが、日本棋院広島支部長・藤井順一の家で対局する運びとなりました。藤井宅は、広島市材木町(現・中島町)にありました。

東京から広島に行った岩本七段は名古屋の空襲などで移動に苦労し、6月中頃から始める予定の七番勝負は7月下旬まで延期されました。橋本本因坊は疎開先の姫路から広島入りしています。

第1局は、7月22日から3日間おこなわれました。対局が始まる前日、広島県警の青木重臣第一部長は橋本の内弟子・三輪芳郎君を呼び出し、「もし対局が始まるようだったら、すぐに電話をしてほしい。警察としては直ちに中止するように命じる。そのように心得ておいてほしい」と言ったそうです。弟子からその話を聞いた橋本本因坊は瀬越八段と相談し、青木氏の言葉を無視して強行したのです。結果、挑戦者・岩本七段が勝利。

第2局は8月4、5、6日の予定でした。

県警の青木氏は第1局断行を怒らなかったようです。ただ、《「二局目はあそこで打たないようにしてほしい。すでに私のほうで手配して五日市の津脇勘市さんにお願いしてありますから」とおっしゃるんです。と言いますのは、広島が非常に危険な状態にあることを情報でご存じだったんです。》(p.22)

藤井氏はこの対局のために疎開先から道具を持ち帰ったり酒や料理を用意し、対局の手伝いのため家族も戻ってきていました。対局場を変更することに藤井氏は立腹しましたが、結果的に一行は五日市駅近くに移ります。

津脇勘市は中国石炭の社長で、佐伯郡五日市駅前にある同社の寮で第2局が行われたようです。対局場は爆心地から直線距離で約8.5kmでした。高台と書かれていますが、おそらく記憶違いでしょう。

橋本本因坊がリードして迎えた3日目、8月6日の朝になりました。対局場にいたのは、橋本・岩本の両対局者、瀬越、三輪、広島のアマチュア強豪・矢野の5人でした。

橋本(……)碁盤の前に座ってちょっと横を見ると、眼下に瀬戸内海が開けていて広島市まで見えました。しばらくしますと空襲警報が解除になりました。それで昨日までの碁を並べ始めました。そのときに空襲警報が解除になっているのに、一機だけ飛行機が広島市の上を飛び回っているんです。誰が言ったのか忘れましたが、おかしいな、と言いましてね、みんなでしばらくそれを見ておりました。そのうちに落下傘がパッと開いたのが見えました。故障か何かでパイロットが飛び降りたんじゃないか、というようなことを言いながら見ておりましたけれども、ものすごくゆっくり降りてくる。いつまで見ていてもしようがないから、少し並べかけたときでした。部屋が真っ白になったんです。ちょうどマグネシウムを焚いたときの感じですね。それからしばらくして、ドーンという音と一緒にものすごい爆風が飛びこんできました。
  (……)
橋本 パッと光ってからしばらくしてドーンと来ました。もう部屋はめちゃくちゃです。窓ガラスは飛ぶし、鴨居は落ちてきますしね。私は慌て者とみえて、一瞬の間に庭へ出ていました。気がついたらね。

爆風でめちゃくちゃになった部屋を片づけて対局は続けられ、午後3時過ぎに橋本本因坊が勝利。その後、あらためて広島の惨状に気づきます。瀬越八段の息子と甥が亡くなりました。七番勝負はいったん中止となり、岩本七段は郷里・島根へ(『囲碁一期一会』には「岩本さんは郷里が山口ですから」と書かれています。山口経由で山陰に帰省したのかもしれません)に帰り、橋本本因坊と三輪君は姫路を目指し、まずは広島駅に降り立ちます。生々しい被害の状況を見た2人は、軽い原爆症でしばらく苦しんだようです(原爆症に軽重があったことは、柳田邦男『空白の天気図』で知りました。ぜひ読んでほしい傑作ドキュメントですけど……怖すぎて、自分は2度と読めません)。

材木町の対局場を提供した藤井氏は家族はじめ十数人は犠牲になりました。藤井家のあった材木町は爆心地に近く、全滅して今は平和公園になっています。そのことに橋本氏は負い目を感じていました。

青木重臣部長はなぜ材木町から対局場を移したのでしょうか。

青木さんは広島県警の部長でしたから、いろいろな極秘情報も知っておられたと思いますが、具体的にどうだったというようなことはお聞きしたことはありません。お兄さんが青木一男さんといいまして、大東亜省の大臣をなさった方です。

と、この程度しか書かれていません。青木重臣は戦後愛媛の県知事になったそうです。

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ここからは本題と関係ないメモです。

広島駅で電車が動かないことに困っている橋本宇太郎と三輪君を、アマチュアの矢野氏が芸備線(県北に向かう路線)甲立駅の山崎という旅館に案内したそうです。橋本氏と三輪君は2泊しました。

旅館の主人はアマチュア広島一の腕前で、碁を指南してくれと頼んできました。橋本氏自身は疲れて打つ気がしないから三輪君に頼んだら、置き碁ではなく先二(下位者が先手、先手、2子局で打つハンディキャップ=三段差くらい)で打ち、三輪君の負けが込んだ、とのこと。《じつは、ここは将棋の升田幸三さんの郷里でして、ご主人の話によれば、升田さんに将棋と囲碁を教えたのは当のご本人ということでした。升田さんは碁も強かったですものね》と橋本氏は述懐しています。