8月6日と、丹下健三の直線

8月6日は、広島の原爆記念日。

私は広島出身ですから、小学生のころから多くの写真や証言、史料を見聞きして、トラウマになるほど強いショックを受けました。慰霊の気持ちはありますが、毎年同じような平和記念式典と、同じようなテレビ特集に食傷気味です。

変化がないわけではないのです。昨年は菅義偉元首相が、挨拶を飛ばして読んでしまうというハプニングがありましたし、テレビ特集はショッキングな写真や映像を避けてマイルドになっていきます。どんどんフェードアウトしていっているのかもしれません。

──なぜ日本に原爆が落ちることになったのか?

──ポツダム宣言を直ちに受理していれば原爆投下はなかったのではないか?(かつて、安倍晋三元首相は「ポツダム宣言というのは、アメリカが原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えたあと、『どうだ』とばかり叩きつけたものです」「ポツダム宣言をつまびらかに読んでない」などと発言しました。ポツダム宣言が発せられたのは1945/7/26、原爆投下は同年8/6と8/9でしたし、ポツダム宣言はそんなに長い文章でもありません)

──日本の被害ばかり強調されるが、加害を取りあげないのはなぜか?

歴史を学ばないと、同じ間違いが起きますよ。

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話を換えます。

上の写真、慰霊碑と原爆ドームが一直線に並んでいることがわかります。

吉見俊哉『五輪と戦後』で、丹下健三がどういうふうに広島平和公園の設計を計画したか、書かれていました。

1940年代、大東亜建設忠霊神域計画というものがありました。東京から富士山麓に向けて大東亜道路を造って首都機能を分散させる構想で、富士山麓には丹下健三デザインによるシンメトリーなモダニズム建築風の神社を建築する壮大な計画でした。結局、幻となった計画ですが、スケールは小さくなったものの、同じことを丹下は広島で実現します。

下の写真をご覧ください(平和公園に面した平和大通りは、全国都道府県対抗駅伝のスタート・ゴール地点です)。

丹下健三は、平和記念資料館ふくめた建築物の真ん中から、慰霊碑、原爆ドームを一直線に伸ばしました。大東亜建設忠霊神域計画と重複され、早くから批判されていたようです。井上章一は《(略)日本ファシズム下で構想されていたもが、そのまま戦後の平和と民主主義のシンボルとして実現し》たのだと指摘しているそうです。人類の平和の象徴たるべき施設が、帝国日本的の象徴と重なるという皮肉。

広島は一大軍都でした。川に挟まれた平和公園はかつての住宅地、原爆ドームは産業奨励館ですが、広島城のお濠の内側は第5師団司令部があり、お濠の外には軍の施設がぐるっと配置されていました。旧広島市民球場は西練兵場の一部であったはずです。軍事施設が、戦後、スポーツ施設や公園──市民憩いの場所──に転じるのです。大東亜建設忠霊神域計画が平和公園になるのも、似たようなものかもしれません。

丹下は、空間に敷いたラインを、基町のほうまで伸ばしたかったそうです。しかし、旧広島市民球場の膨らみで寸断されていました。青少年センター(白い建物)との間の道は昼間でも暗かったことを記憶しています。

平和記念公園が1954年開園、市民球場が1957年に完成していますから、都市計画として、丹下の計画は球場建設とは別ものだったのでしょう。カープは戦後復興のシンボルでありましたし、野球中継のたびに原爆ドームが映っていたのはよかったと思いますけど、丹下の構想とは外れていたのです。

現在、旧広島市民球場跡地整備等事業が計画されていて(→広島市)、慰霊碑から原爆ドームを貫き県立総合体育館にぶつかる直線は「平和軸の継承」と名づけられ、両側に桜を植えたプロムナードとして整備されるのだとか。ふむふむ。あの直線が、70年の時を経て少し伸びるんですね。