狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

戦前の高校野球

ふたたび、小山静子編『男女別学の時代 戦前期中等教育のジェンダー比較より。

戦前、男子スポーツはどう報じられたか。

男子スポーツに求められたのは、スポーツマンシップ、精神力(意気)、敗れたあとの潔さ・笑顔・相手へのエールなど。それらは「男らしさ」であった。

1920年代から女子スポーツに盛んになったが、「男より劣っている」という意識があるため「強い女性」と書かれたり、「目の保養」的な「女らしさ」を強調する報じられかたをした。

都知事選の小池百合子と蓮舫を「女の戦い」と書いたり、蓮舫を「強い女」と書く現在も事情は同じですね。女はおとなしくたおやかでいろという意識が根底にあります。

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中学男子スポーツの花形は、甲子園野球だったろうとあります。

甲子園における野球観は、一高で生まれた「武士道野球」であり、勝利至上主義、精神主義、集団主義を重要視したものであったとされますが、早稲田・安部磯雄が勝利至上主義を排除し、フェアプレー精神、スポーツマンシュップを採り入れ、早稲田系の飛田穂州らが広めたのだそうです。

野球というゲーム自体が戦争のメタファーであったため──ユニフォームや「塁」「死」など、戦争に通じる要素がたくさんあります──、戦前は、戦争用語をもって記事が書かれたといいます。「山陽の雄広陵、四国の豪高松 必勝を期して戦場へ」(東京朝日新聞 S2/8/21夕刊)なんてね。

スポーツマンシップが讃えられる一方、エラーなどミスは意気の欠乏と書かれていたそうです。技術ではないんだ。

高校野球のスタンドには泊まりがけのファンが押し寄せたらしい。前夜に、甲子園のスタンドで大勢のファンが寝ている写真が掲載されています。90%以上は男でした。

理想の男らしさを体現した高校球児のプレーに、観客は一体となって熱狂しました。

ある論文では、男性のスポーツ観戦者はスポーツ観戦を一種の疑似体験として捉え、選手と同一化することでカタルシスを得る傾向が強いことを指摘しているそうです。

現代の高校野球では、男子球児に祈りを捧げる女子高生という関係に「固定化されたジェンダーの構図」を読み取れますが、1920年代の甲子園では、女子のいない空間で、選手や観客が一体となって「男性的な力と熱」を象徴する空間が甲子園であった──と、こんなふうに論評されています。 

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私は人と人が殴り合うのがイヤであまりボクシングを見ないんですが、先日、初めて井上尚弥の試合をAmazonPrimeで生視聴しました。観客の多い東京ドームだったこともあり、会場は異様な盛り上がっています。井上が殴るたび、観客の唸り声が重低音で響きます。私は「男性的な力と熱」に辟易して、終始醒めていました。興奮している人たち、ひとたび戦争が始まると、マッチョな意見を並べて「日本ガンバレ」と言うんだな、と感じちゃったのです。