狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

神宮外苑の樹木伐採

週末、30〜40キロ走していたころは、都内のいろんなところをグルグルまわっていました。だから東京のいろんな町の雰囲気や地形を肌で感じたつもりです。計画的に造られた町、火事が起きたら消防車が入れるんだろうかと心配になる路地だらけの下町、栄えている商店街、文化的な香り漂う町並み、古びゆく地区、などなど。……私と同じように東京をあちこち走ってきた人は、越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫)などを読むのも楽しいはずです。

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先日、神宮外苑の樹木を1,000本も伐採する、というニュースが流れてきました。

「永続する生命の鎖」から自分を切り離し、他者の中で不安を感じる近代人は、大樹を見ると「それが自然であるゆえに近代人の自我に直接の挑戦をすることなく、しかも象徴的なイメージとして、個体を超えた生命の実感を与えてくれ」る──と、山崎正和が書いていました。

巨木は永遠の生の象徴であり、伐られるとあたかも自分の生命を奪われる気がするのでしょう。

神宮外苑は、明治神宮(内苑)と皇居の中間に位置し、聖徳記念絵画館など、明治天皇皇后を顕彰する一帯です。国立競技場・神宮球場・秩父宮ラグビー場なども含まれます。今は、多くの人がスポーツ施設のエリアと考えているのではないでしょうか。

もともと神宮外苑はどんな場所なのか。外苑のHPから引用しましょう。

明治神宮外苑は、明治天皇とその皇后、昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるために、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕により、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現明治記念館)などの記念建造物と、陸上競技場(現国立競技場)・神宮球場・相撲場などのスポーツ施設が旧青山練兵場跡に造成され、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献されました。

f:id:mugibatake40ro:20220220233019j:plain以下、越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫)を参考に書きます。

崩御した明治天皇の陵墓が京都・伏見桃山に決定されると、東京では、代々木御料地を明治神宮(神宮内苑)に、旧青山練兵場に神宮外苑をそれぞれ建築することにしました。外苑の設計者は《日本の近代公園と公園行政の祖といえる》折下吉延でした。

(略)外苑の中央には明治天皇の一代を描く絵画をおさめた聖徳記念絵画館が建てられ、スポーツ施設が設置された。これは今日でも天皇杯が続いているようにスポーツも心身の鍛練を通じて明治天皇の業績を偲ぶ活動であるとみなされていたからである。
 明治神宮がすべて国費で造営されたのに対して、神宮外苑は民間有志によって結成された明治神宮奉賛会が国民の寄付金により造成したもので、完成後、その建物・施設のすべてを明治神宮の外苑として奉献したものである。(89ページ)

越澤氏は《東京で最も美しい並木道は神宮外苑の銀杏並木である》と評価しています。その理由は《パリのシャンゼリゼ、ベルリンのウンター・デン・リンデン、ロンドンのザ・モールなどその都市を代表する並木道(アヴェニュー)には共通するひとつの都市デザインの公理がある。つまり、アヴェニューの軸線上のヴィスタにシンボリックな記念建築物が置かれ》ているから、とのこと。東京でそれを実現しているのは、並木道の先に聖徳記念絵画館を設置した外苑の並木道だけだというのです。東京には珍しい4列の並木で、1列ごとに34本、都合136本のイチョウが植えられました。

1926年(大正15)12月22日に外苑は竣工し、奉献式が挙行されます。国民の献金は835万円だそうです。《明治神宮奉賛会(会長は公爵徳川家達)はこのとき明治神宮に対して「外苑将来の希望」という一文を入れてい》て、越澤氏は以下の一部を引用しています。[*太字は、著者・越澤氏が傍点を振っている箇所]

(1)外苑は明治天皇及昭憲皇太后を記念し、明治神宮崇敬の信念を深厚ならしめ、自然に国体上の精神を自覚せしむるの理念を基礎とし、一定の方針を以て設計造営せられたるものなるを以て、今後、之が管理及維持修理上に於ても常に右理想を失はざる様御注意あり度事。
(2)外苑は……上野、浅草両公園の如きとは其性質を異にするを以て、今後、外苑内には明治神宮に関係なき建物の造営を遠慮すべきは勿論、広場を博覧会場等一時的使用様するが如き事も無之様(これなきよう)御注意あり度事(99ページ)

明治神宮内外苑は風致地区第一号として、景観を守るように定められましたが、外苑は戦後、変貌を遂げます。写真は、国土地理院のサイトの空中写真より。写真のトリミングや地名を振ったのは私です。

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上から、1936年、1965東京オリンピック後、2020東京オリンピック直前の外苑です。

戦前、イチョウ並木の先には芝生が植えられ、相撲場の土俵と観客席はフラット(屋根と4本柱はある)、球場のスタンドも低く、見晴らしがいい緑の空間でした。

敗戦後、競技場はアメリカ進駐軍に接収され、メイジパークと呼ばれます。アメリカ人には明治の威光など無関係ですから、中央広場は球技場になりました。1952年(昭和27)3月の接収解除後も中央広場は復元されず、現在はサブトラックが造営されています。

1952年(昭和27)10月、政教分離政策にもとづき、明治神宮が宗教法人となり、内苑は無償で、外苑は時価の半額で明治神宮に払い下げられました。

外苑の陸上競技場はどうなったのでしょうか。

(略)神宮外苑は日本政府の東京オンピック開催という国策の犠牲となり、一九五六年一二月陸上競技場は国(文部省)に譲渡され、大スタジアム建設のために、競技場の周囲にあった緑のオープンスペースが破壊された(造営当初の姿は逆に、緑の中に競技場が置かれており、今日の状況は主客転倒してしまった姿である)。(100ページ)

『東京都市計画物語』は戦後の外苑を「無惨な姿」と表現していますが、2021年開催のオリンピックのために、明治外苑のはどんどん惨めさを増しました。そして、冒頭にリンクした記事によると、イチョウ並木以外の樹木はほとんど伐る計画のようです。

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私は、2020東京オリンピックのゴタゴタ(ザハ案の撤回や買収問題など)が生じるたび「早く返上したほうがいい」と考えていました。旧国立競技場が壊されてしまったときは「新しい競技場を建てるのではなく、大きな公園を造るべきだ」とも。

新国立競技場はじめ維持費が今後いくらかかるかわからない巨額ハコモノがたくさんできあがり、そのうえ皮肉なことに、コロナにより観客席は空っぽのまま競技がおこなわれました。

想像してください。いま、新国立競技場の場所が公園で、たくさんの樹木にかこまれ芝生が植わり、一画にクロカンコースがあったりする空間を……。新国立競技場建設のために伐られた1500本の樹木も、住民が立ち退きを余儀なくされた霞ヶ丘アパートも、まだ存在するのです。《全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕》は100年経って無になるのか。

神宮外苑には、15メートルの建築制限がありました。新国立競技場を建てるために70メートルだか80メートルに緩和したのですが、それは特例ではなく、後に「誰かが金儲けするため」あの一帯を高層ビジネスビルに変える伏線だったのです。100年以上前に植えられた樹(永遠の象徴のシンボルである巨木)は、「誰かが金儲けするため」伐られて高いオフィスビルに変わります。

「誰かが金儲けするため」都合良くルールを変える──それすなわち行きすぎた資本主義=新自由主義です。金持ちは無限に儲け、弱者は食い物にされる一方。政府が競争を放置するので、日本の格差は広がり、景気は後退しています。このままカビ臭い資本主義を続けていくと、地価の高い東京から人が減っていくでしょう。先日、東京23区から30代が流出していると報じられ、「テレワークが浸透したから」なんてことを言う人がいましたが、とんでもない。みな東京では生活できないのです。

私は戦前の天皇=国体なんて復活してほしくはありません。緑が失われるのを惜しんでいます。

不思議なことに、「保守」を自称する人たちが再開発反対の声をあげません。このたびの決定に賛成した都議会の多数派も、自公や都民ファーストの、自称「保守」のはずです。彼らは《明治天皇及昭憲皇太后を記念し、明治神宮崇敬の信念を深厚ならしめ、自然に国体上の精神を自覚せしむるの理念を》有する神宮外苑を毀損するのに抵抗はないのでしょうか。儲かればいいのかな。