狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『いだてん』、運動嫌い、運動と無縁な人々

近年、ドラマを観たことがない私が『いだてん』を初回から観ています。金栗四三ファンですし、近代文学を専攻していたので明治末から大正の文化に興味があるんです。関東大震災前のランドマーク浅草十二階が出てきたりしたらワクワクするんですよ(江戸東京博物館にある十二階のレプリカにも昂奮したもんなあ)。志ん生の『びんぼう自慢』『なめくじ艦隊』もちくま文庫で読んだけど、どこ行っちゃったかな。

きのう放映された第四回も視聴しました。金栗四三の伝記『走れ二十五万キロ』に書いてあるエピソードを換骨奪胎しながら面白く描いています。東京高等師範(現・筑波大)に入学したのは四三が満19歳になる明治43(1910)年です。

第四回では、校内長距離競走が出てきましたね。高師では、春と秋に嘉納治五郎校長発案による大会が行われました。《全校六百人の生徒が参加して春は三里、秋は六里の道を駆け抜くのである。嘉納校長も巻脚半姿でこのレースに参加した。目的地にたどり着けば、そこには模擬店などもつくられていて、酒やビールは飲み放題。教授、先輩、生徒が入り交じっての大園遊会を開くという趣向だった》[『走れ二十五万キロ』より引用。以下同]。四三が最初に参加したのは入学直後の4月10日。コースは《赤坂区の青山師範学校校庭から、道玄坂を通って多摩川遊園地までの三里》でした。四三は便所を探しているうちに出遅れ、25着。秋は《大塚の高師から板橋へ抜け、中山道を北上して浦和を通り大宮までの六里》のコースで、このとき3位になっています。ドラマでは春と秋の大会を合体させていましたね。さすがに大河ドラマでは十代が飲ませるわけにはいかないので、ゴールは学校、酒宴もなさそうでしたね。

ところで、高師に一緒に入った同郷・美川秀信は実在しました。入学した夏、一緒に富士登山を試みて失敗するなど、仲が良かったんです。彼はしばらくすると伝記からいなくなりますが……。ドラマでも学校に馴染めていないようですね。また、走ることに自信のありそうな車夫が出てくる。しかし彼は学生ではないので長距離走には参加できません。

私は『いだてん』を観ながら運動音痴やスポーツができなかった下層クラスの人々について考えてしまうんです。

「健全なる精神は健全なる身体に宿る!」と体育教師にしごかれたが、後年あれは「健全なる精神は健全なる身体に宿れかし(宿って欲しい)」だったと知って切歯扼腕した、と書いたのはマンガ家&エッセイストのYさんではなかったかな。

私、小中学生のころは短距離も長距離も苦手でした。いま思えば鉄棒・跳び箱・縄跳び・幅跳び・高跳び・球技・水泳などはむしろ得意だったんですけど、運動会のかけっこのたび、親の目の前でビリになるのは恥ずかしい。勉強はそこそこできましたが、鈍足はそれだけで人生が真っ黒に塗られたようなコンプレックスでした。運動会の前日は雨が降るのを祈りました。高校1年のときに走るコツを覚え、100Mを12秒台で走れるようになったのです。世界が明るくなりました。ただ、以後も持久走はビリのほうを走ってました。マラソン大会で振り返ると数人の太っちょしかいなかった。

嘉納治五郎や金栗四三が、教育とくに学校スポーツやオリンピックの振興に寄与したことは事実ですが、当人たちが意識したか否かは別にして、それらがナショナリズムや富国強兵と無縁であったはずはありません。運動ができない者にとって、あんなスポーツ漬けの日々はたまらなかったはずです。私はあの学校には通えません。

1893(明治26)年、永井荷風が高等師範附属尋常中学校(現・筑波大附属中高)の最上級生になったとき、嘉納が校長(高師との兼任)になりました。熊本から転任してきたのです。生徒は柔道着を買わされ毎日1時間稽古をさせられます。荷風は病弱を理由にサボったそうです。お察しします。

でもですね、そもそもスポーツが好きとか嫌いとかいえるのはお金持ち。

戦前の下層クラスの人々は、勉学やスポーツをやる余裕などなかったのです。

1909(明治42)年生まれの松本清張は貧しい家に育ち、小学校を出ると働きました。みうらじゅんがラジオでこんなことを語っていました。「清張先生はむかし、あんなに下唇が大きくなかった。苦労しながら、今に見ていろ、今に見ていろと唇を嚙んでいたら、ああなった」……本当かどうか定かではありませんが。

『1964年の東京オリンピック』に収録された松本清張「憂鬱な二週間」(オリンピック約1ヶ月前に「サンデー毎日」に掲載された)より引用。

いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない。私たちの青年時代に若い人でスポーツが好きなのは、たいてい大学生活を経験した者だった。学校を出ていない私は、スポーツをやる余裕も機会もなかったし、理解することもできなかった。まだ社会党をつくらない前の安部磯雄氏を私はわりあいに好きだったが、氏が早大の野球部長をしていることだけは気に入らなかった。野球などというのは、めぐまれた家に育って大学にやらせてもらっているノラクラ学生のすることだと思っていた。(略)

この文章、清張は唇から流れる鉄分の苦みを感じながら書いたのかもしれません。国を挙げての祭典に触れ、明治・大正の庶民の怨嗟がよみがえったのでしょうか。忘れがちですが、戦前の庶民にとってスポーツというものは高等遊民の楽しみです。教育そのものも貧乏だと受けられなかった。清張は戦後ベストセラー作家になりましたが、戦前の文豪・知識層の多くは富裕層の出でした。

明治の下層階級は決して救済されなかったと最近も読んだばかり。すなわちスポーツに縁があるブルジョアと縁のない貧乏人の絶対的な差は、子や孫に受け継がれます。明治大正にだって、ちょいと野球やらせりゃ、稲尾みたいに剛速球投げる漁師がいたかもしれないのにね。

私たちが子供だった昭和50年代あたりは格差が少なく、誰でも勉強すれば階層を逆転すると信じられた(実際はそうでなかった、という話もあります)んですが、今また格差が拡大しています。みんな等しくチャンスがある世の中が望ましい。

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  • 作者: 三島由紀夫,石川達三,杉本苑子,大江健三郎,開高健,井上靖,山口瞳,松本清張,丸谷才一,小田実,渡辺華子,柴田錬三郎,阿川弘之,曾野綾子,瀬戸内晴美,有吉佐和子,石井好子,安岡章太郎,岡本太郎,小林秀雄,中野好夫,会田雄次,菊村到,石井正己,大宅壮一,司馬遼太郎,亀倉雄策,市川崑,沢木耕太郎,石原慎太郎,遠藤周作,平林たい子,武田泰淳,松永伍一,星新一
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