狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

草の家、木の家、レンガの家

台湾で大地震──。能登半島の地震につづき、ニュース映像にショックを受けました。1人でも多くの人が助かりますように。わずかながら支援のため募金をしました。

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ジャレド・ダイアモンドが『昨日までの世界』下巻に書かれていたエピソードです。本が見つからないのでうろ覚えで書きます。(見つかったら書き直します)

東南アジアの原住民とキャンプをしていたジャレド・ダイアモンドが「ここで野宿しよう」というと「この木が折れて倒れるかもしれないから厭だ」というんだそうです。「丈夫な木じゃないか。一晩くらい大丈夫だよ」と言いましたが、彼らは頑なに拒みました。

のちに、ジャレド・ダイアモンドは、仮に倒木の可能性が万に一つであっても、毎日木のそばに寝ていたら、一生のどこかで圧死する可能性があり、彼らは、あらゆる場面でほとんどありえない危険すら回避していることを理解しました。事実、森では、樹木が倒れる音をよく聞いたのです。

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三匹の子ブタが、それぞれ草の家、木の家、レンガの家を建てました。オオカミに襲われた場合は、レンガの家が一番よかった。

もしも、地震だったらどうでしょうか。

先史時代の人たちが、上記の原住民と同じ危機管理意識を備えていたのだとしたら、木の枝と葉っぱでできた家に住んでいたのは暮らしの知恵かもしれません。家がつぶれたってたかが知れていますし、すぐに作り直せます。

最近、そんなことをつくづく考えます。しかし、われわれは堅牢な家で定住することを選んでしまったのです。

ワオラニ

前回ちょっと書いたエクアドルのワオラニ族(アウカ族)に関して、アレックス・リバス・トレド/山本誠・訳「世界システムとアマゾン先住民──タゲリへの襲撃をめぐって」(四天王寺大学紀要・第46号 2008/9)という論文を読みました。トレドは、メキシコ市立社会人類学高等調査研究センター(CIESAS)社会人類学部門担当官。エクアドル生態学 研究 エコ・サイエンス財団とのプロジェクトにおいて、1999年から2001年にかけてワオラニの調査を行っている人物とあります。

ウォーラーステインの「世界システム論」を援用しながら西欧社会の枠組みに巻き込まれた辺境の未開部族がどうなるか、という論文ですが、そのことには踏みこみません。

ワオラニは1956年に、夏期言語学研究所から派遣された5人のプロテスタント系の宣教師を殺しました。1987年に総代理司祭、1990年代、2000年代にも入植者、石油関係者、木材伐採業者が襲撃されたため、ワオラニの暴力は「未開・反文明・野蛮」「血に飢えた本来的に未開な集団」といったイメージを定着させたそうです。

1956年の宣教師殺害ののち、60年代から70年代にかけてワオラニと接触することに成功した宣教師たちは、保護区に彼らのクラン(氏族と訳される)を集めましたが、人口増加による緊張の高まりにより分散し、外部からの接触を拒むようになったとあります。

ワオラニと同様、南米のヤノマミも「獰猛な民」と呼ばれてきましたが、《30年以上にわたってヤノマミを「獰猛な民」として捉えてきた民族誌は、彼らへのはなはだしい暴力と干渉という条件のもとでつくられていた》とわかってきたと書かれています。《戦争の暴力と憎悪といった発想のより所となっていた民族誌上のエピソードの中には、現地での意図的な操作の産物すら紛れ込んでいた 。また彼らは死をもたらしかねない麻疹ワクチンの実験材料にも動員されて おり、それは殺人集団というエスニック・イメージの構築と並行してのことであった。》

 ワオラニの場合は、部族内部の暴力と死は最も重要な文化的特徴だとして扱われた。彼らを 平定したプロテスタント系のミッション以降、オーラルヒストリーをつなぎ合わせることでワ オラニの過去が研究され、その結論は「生まれつき暴力的」というものでしかなかった。そ ういった調査がなされる一方で、ワオラニはテリトリー統合の対象とされ、生業や食習慣の変更、そしてコスモロジーの修正も強いられた。文明化したインディオとしての社会モデルを引き受けるよう促されたのである。

「暴力的な部族が布教により平定され文明化された」というストーリーありきで語られてきたということです。

 こうしたヤノマミとワオラニの事例から示唆されているのは、次のようなことではないだろうか。つまり、近代における彼らのアイデンティティ構築のありようは、外部エージェントの 利害や役割、活動ぶりと極めて密接な関係をもっていたということだ。自然主義者や文化主義者の解釈にはこのようなアマゾン先住民に関する社会的・政治的な説明が含まれておらず、彼らは先住民たちの中核的な要素たる暴力や武器、狩猟に関する記述に専心していただけのことだった。進化主義と文化主義は手を携えて近代の原初主義的な神話を創造し、ヤノマミとワオラニは先祖代々より暴力的な存在だとされたのである。

未開社会の人たちは、文明人に野蛮な者・宗教を知らない弱者として発見され、大きな近代という大きな渦に呑みこまれます。《アマゾンの部族戦争なるものは、近代の侵入という大きな災厄の効果なのではないか?》と結語に書かれています。先住民たちは白人がつくった物語や、グローバル資本主義と対峙しながら権利を主張するほかありません。

『ミッション:「サタンの最後の砦」に挑んだ宣教師』

『ミッション:「サタンの最後の砦」に挑んだ宣教師』(原題『THE MISSON』)というドキュメント番組が昨年ナショジオチャンネルで放映されました。

インド領アマンダン諸島のひとつ、北センチネル島に、外来者を拒絶するセンチネル族が住んでいます。2018年、キリスト教福音派の宣教師であるアメリカ人の若者ジョン・チャウが彼らに接近し、矢で射殺されました。

狩猟採集民は平和的だと読んだのちこの事件を知り、やや混乱しましたが、さらに学んでいくうち、以前、センチネル族に接近した人が、現地民を連れ去るか、彼らにとって未知の病気を流行らせたのだろうと推察していました。

はたして、そのとおりでした。

1880年、当時十代だったイギリス人M・V・ポートマン(Mauris Vidal Portman)がアマンダン諸島のセンチネル族と接触し、大人2人と子ども4人を連れ去りました。大人2人はすぐに死んだため、子どもを島に帰しましたが、このことがセンチネル族を排他的にしたというのです。

インド国立人類学研究所T・N・パンディットは何度もセンチネル族との接触を試みましたが、今では彼らに近づくべきではないと話していました。「彼らも人間でバカの集団ではない。他の部族の衰退を見てきた。たとえば大アマンダン人。オンゲ族も不幸な目に遭った」

かつてピダハンに伝導を試みたダニエル・E・エヴァレットが登場。未開の人びとに布教する必要はないと話します。エヴァレットは、長年ピダハン族と暮らし、彼らの言葉を研究して布教のチャンスを窺いましたが、今の生活に満足している彼らにアマゾンのに神は必要ないと悟り、最終的には自分自身もキリスト教を捨てました。彼が書いた『ピダハン』は必読ですよ。

欧米の人々は未開の土地に行き、命を賭けてまでキリスト教を布教することが善いことだと考えています。「食人の習慣がある」などと事実をねじまげても、善導しようとするのだ──と、きちんとそこまで伝えた番組でした。

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以下、個人的なメモ。

番組で紹介された記録映画や本。ジョン・チャウに影響を与えたかもしれません。

  • Through Gates of Sprender:エクアドルのアウカ族への布教
  • End of The Spear:エクアドルのワオラニ族(アウカ族と同じらしい)を改宗させアメリカ中で「神の勝利」と讃えられた。
  • 『The Last Island of The Savegers』アダム・グッドハートの著書。北センチネル島のことを描く。著者は映像に何度も登場。
  • Cannibal  Island:アンダマン諸島ジャワラ族は死んだ男の頭蓋骨を首から下げる習慣があり、それを食人習慣があるかのように描く。
  • The Last Tribes of Mindanao:フィリピン・ミンダナオ島のタサダイ族
  • Man in Search of Man:アマンダン諸島の先住民を記録したフィルムと思われる。北センチネル族と接触を試みるシーンは番組に何度も登場。
  • The Peace Child:1962年、ニューギニアの人食い人種サウィ族を伝道する話らしい。

2024年3月のジョギング

3月の月間目標は180kmと書きました。ラスト5日で49km残っていたのでダメかな……と思いましたが、なんとか走り切りました。

1月 120km
2月 150km
3月 180km

……と走り、4月から200km走ることにします。200km走れば、市民ランナーと言ってもいいんじゃないかな。甘いでしょうか?

体重はまだ66kgを切りません。1月に最大69.5kgだったので、まだ3kg程度しか落ちていません。真面目に走っていたころの62.5kgまで落とすつもりなので、3.5〜4.0kgオーバーといったところです。まだ半分も落ちてません。お腹周りの浮き輪は消えかけていますが、まだ脇腹のうえのポニョがあります。

3月30日のお気楽ジョグ

「町中華が好き」という方々には好評らしいお店に入ってみました。町中華とは、おそらく北尾トロさんたちがいい始めた用語ですが、今じゃみんなに通用します。いかにも町中華という呼称がお似合いの、家族経営っぽいお店。ジュリーの色紙が数枚貼られていました。私にはちょっと私には味が濃すぎた。塩分もだけど、化学調味料も……。

妻の実家に行き、介護のお手伝い。18時近くからジョギングし、新宿線某駅から京王線某駅まで11.5kmジョグ。咲いていた桜は写真の樹だけでした。

 

毎日更新することにします。

毎日更新することにします。

先週の金曜日は友人の通夜、土曜日は親戚の結婚式でした。どちらも埼玉県だったので、安宿に泊まって埼玉県をジョギングしようとおもっていたんですが、「お通夜と結婚式を掛けもちするなんてとんでもない」と妻に言われ、「そんなものかな」とモヤモヤしつつも金曜日はうちに帰ることに。両日ともクタクタになって、結局走らず。日曜日も雨が降り、寒くて走らず……。

そんなこんなで、月間目標180kmが危うくなっています。27日からの5日で49km走らなきゃなりません。27日11km、28日10kmとゆるジョグし、残り3日で28kmとなりました。

写真は府中・大國魂神社の枝垂れ桜。きのう(3月28日)、19時にライトアップ終了になりますが、数分前に到着しました。雨も降っていたため、数分間一人占めでした(スマホのレンズが濡れていたのか、映りが悪かったので、小さめに掲載します)。気温が少々低くても、半月前と比べて体感温度がずいぶん違います。神社からの帰途、ずいぶん濡れましたが、寒いとは感じなかった夕方でした。

間永次郎『ガンディーの真実』2/2

ロンドンで英国法定弁護士資格を取得したガンディーは、南アフリカにわたり、インド人移民が多かった南アフリカに渡ります。

1880年代、彼の地で、ガンディーは理不尽な人種差別を体験します。チケットを持って一等車に乗っていたのに、白人乗客な鉄道員が乗り込んできて、三等車に移るよう命じたのです。チケットを示してそれを拒んだガンディーは、荷物もろともマリッツバーグ駅に放り出され、寒さをこえらながら待合室で一夜を明かします。

翌朝、ガンディーが乗合馬車に乗ったところ、態度が生意気だと白人乗客に暴力をふるわれ、走行中の馬車から落とされそうになります。真鍮の手すりにしがみついたガンディーを、白人乗客は容赦なく殴りましたが、周囲の白人が暴行を止めました。この不条理な差別体験をインド人の同僚に話しますと──

これを聞いて彼らが驚いたのは、ガンディーが語った人種差別体験ではなく、ガンディーが人種差別体験を問題視していることだった。[……]まさに、ガンディーを人種差別体験以上に驚かせたのは、明らかに不正に思える社会的慣行を、被差別者たちであるインド人地震が自明のものとして甘受している姿だった。(ゴシック部分は原文では傍点)

ガンディーは差別を受ける者と差別をする者の二項対立で物事を考えたのではなく、より俯瞰的な観点から、差別をする者さえもが野蛮な文明の被害者であると見なしたのであった。差別を根絶するために必要なことは、加害者を糾弾することだけではなく、システムを変革することだった。

[ガンディー]は、社会で最も巨大な「暴力」を可能ならしめるものとは、専制君主や暴漢やテロリストではなく、社会の大多数の人々の何気ない不正に対する同意であると考えるにいたった。個人の無思想が、社会全体の人種差別の淵源であると見たガンディーは、その不正に対する絶対的な不服従・非協力を誓った。生涯のある時点から、死よりも真実に忠実であろうと決心したのだった。

翻って、現代日本。安倍政権以降の数々の不正や、いま取り沙汰されている裏金問題や事実上の増税、防衛費倍増などなどに関して、《個人の無思想》が後押ししているのではありませんか? お〜い、みんな声を上げていますか?

わたしはみなさんにそう問いたいのです。