狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

街角の玉子屋までの旅

数日前、郵便受けにアベノマスクを発見した。安倍晋三首相が「全戸に二枚ずつ布マスクを配る」と発表したのが四月一日。俗にアベノマスクと言われるマスクが、ひと月半でうちにやってきたわけである。

効果のほどもわからない布マスクに四百六十六億円の費用がかかると報じられ、黴が生えているなど衛生面で問題のある不良品が多つかり、ペーパーカンパニーが絡んでいると噂されたりした。東京オリンピック・パラリンピックをはじめとして、この政権のやることはたくさんのケチがつく。

郵便受けから夕刊や郵便物と一緒にマスクがにょっと顔をあらわしたときゾクッとした。不幸の手紙が届いた気分はこんなものだろうか。うちは夫婦揃って毎日出かけるわけではなくのでマスクに困っていない。花粉症の妻が買いためておいた分で充分である。

アベノマスクはしばらく玄関先に放置していた。視界に入るたび、すこし気が塞ぐ。石粒が入った靴を履いて歩くように、たかが二枚の布マスクが私を不快にさせるのである。

「受取拒否」と書いて投函しようかとも考えたが、検索してみるとアベノマスクの寄附を受けつけている機関や団体がある。ちょうど、振込の用事もあったので、マスクを某団体に寄附することに決め、本日、町の郵便局におもむいた。

普段使う財布にはほとんど一万円札しか入ってなかったので、ランニングに携行する小さな小銭入れに入っていたコインと千円札も持って出た。

郵便局での振込みは、定期購読をしているある同人雑誌の購読料で、二千四百円だ。ATMに振込用紙を差し込み、手数料込み合わせ二千五百数十円を支払う。千円札二枚と小銭を機械に放り込むと、財布の紙幣は一万円札だけになった。コインはまだある。

つづいて、郵便窓口でアベノマスクをの入った封筒の送料を教えてもらう。普通郵便で百二十円とのこと。一万円札で支払うのは抵抗がある金額だ。小銭を数えたら、五十円玉一枚、十円玉六枚、五円玉二枚でなんとか百二十円になった。これで硬貨もほとんどなくなった。

郵便局を出たところで、玉子がなくなりそうだと妻が言っていたのを思い出した。少し先に、たまに買う玉子専門店がある。そこまで足を伸ばして一パック買うことにした。ほかに妻がおやつ用に食べそうなシフォンケーキなどを購入する。レジで計算してもらうと、ちょうど千円。これなら一万円札で支払うのに抵抗はない。

ところが。

店員の女性が「袋が必要なら四円かかります」というのである。家を出るときは買い物をするつもりがなかったので手ぶらだ。一万円札で千四円払うとおつりの小銭でまた財布がふくらむ。念のため財布を覗くと、アルミの一円硬貨がちょうど四枚入っていた。

一万四円で九千円ぴったりのおつりをもらった。財布の小銭が消えた。アベノマスクも消えていった。雨が降りそうな天気だったが、気持ちは晴れ晴れとしていた。 

一か月半くらい前のこと

東京はまだ自粛要請が解除されていません。日本でも世界でも、蟄居状態でドメスティック・バイオレンス(DV)が増えたと報道されています。報道によれば、児童相談所に寄せられた児童虐待の相談件数は、1月=1万4974件、2月=1万4997件、3月=2万5203件と、前年同月比で1〜2割増加したとのこと。もっとも、学校や職場に行けば行ったでイジメなど人間関係の軋轢があるわけですから問題は複雑ですけど。

4月上旬の話です。

22時過ぎにジョギングを始めて1キロくらい走ったところでちらりと瘦せた少年を見かけました。半袖Tシャツ姿で肩を丸めて歩いています。暖かくなったとはいえ夜はまだ涼しく、半袖で歩くほどではありません。すれ違ったあとで「このご時世、DVかなにかで追い出されたんじゃないか。声かければよかった」と、夜中の坂道を走りながら後悔しました。

1時間半近く走って同じ場所を通ると、なんとまあ、まだその少年がウロウロしているではありませんか。中学1年になるやならずや、という感じ。一回すれ違ったあと、やはり気になるので戻り、声をかけました。

「きみ、寒くないの?」と訊ねると「寒くないっす」と強がります。「うちはどこ?」とたずねたところ、よどみなく自宅の最寄駅を言いますが、歩いたら1時間以上かかります。「方角が分からなくなって……」というのを嘘かもなあと感じながら、方角を教え、金を持ってないというので千円札1枚渡して「これでなにか食べな」というと、会釈して小走りで去りました。

私の対応が正解だったか……。もっと突っ込んで事情を聞くべきだったか、交番に連れて行くべきだったか、咄嗟に判断がつかなかったのです。Facebookにその話を書いたところ、ある友人が「交番に言ってお巡りさんに『あのへんに少年がウロウロしている』と告げて補導してもらうべきだったのではないか」と言われました。そうだね、たぶんそれが正解な気がします。

どうしたかな、あの子。

(妻は別にして、ひとと1分以上直接話したことはあれ以来ないな、と気づきました)

検事庁法改正案のなにが問題か

Twitterで多くの著名人が声をあげ、あのNHKでさえ採りあげはじめたという検事庁法改正問題。よく知らないという方に、国会ウォッチャーの私が簡単にご説明しましょう。

今年の1月31日、安倍政権は黒川弘務検事長の定年を半年延長しました。黒川氏は2月8日に63歳の誕生日を迎え、定年退職するはずでした。送別会の日時も決まっていたそうです。稲田伸夫現検事総長は就任2年目となる8月に総長の椅子を譲ると言われていて、黒川氏はそこで検事総長になることが可能になりました。

大臣でさえ逮捕できる検察庁は行政のなかでも独立性が高いのです。ところが黒川氏は安倍政権に近いと噂され、O渕優子のドリル事件、A利明の斡旋利得法違反、A倍晋三の加計学園事件、A倍晋三およびA恵の関与が疑われる森友・桜を見る会、S川宣寿の公文書改竄問題などなど、数々の疑惑を揉み消してきたと言われます。ただいま河井克行・案里夫妻が捜査されていますが、近年これは異例なことです(黒川氏の人事に怒った現検事総長が捜査を進めているという話もあり)。

当然ながら、国会では異例の検察人事について野党が追及をしてきました。

森雅子法務大臣は黒川氏の定年延長は国家公務員法の解釈を適用したという説明をします。しかし、山尾志桜里議員は「検事の定年には検事庁法しか適用されない。国家公務員法の適用除外である」という過去の議事録を発掘し、その議事録を知っていたのかと2/10に問いただしたのです。森雅子法務大臣は「当時の議事録の詳細を存じ上げない」と動揺しながら言いましたが、のちに「知っていた」と強弁しています。ちなみに山尾氏は元検事、森大臣は弁護士です。

2/12日の国会で、人事院給与局長が検事に国家公務員法が適用されないルールを「現在も引き継いでいる」と答弁し、議会は紛糾。2/19に「1月22日に法務省から相談があるまでは引き継いでいる」と変更しました。現在とは2/12ではなく1/22のことだったと。なんだなんだ?

その後、森大臣は日付のない文書を出してきたり「口頭で決済した」と発言したり……。

3/9、小西洋之議員から検事に定年延長が必要になった理由を問われると、森大臣は、東日本大震災のときに福島県いわき市の検察官が市民よりいちはやく逃げ出したからだというデマ答弁を吐き、謝罪に追い込まれています。

YouTubeで過去の国会をご覧ください。与党政治家は中学生程度の答弁能力もありません。筋立てて説明できないことを取り繕おうとするから次から次へとボロが出てくるんです。森雅子大臣は気の毒と言えば気の毒ではあります。本来、前法務大臣・河井克行が担うはずの役割を押しつけられたんですから。あえて法曹家のキャリアを傷つけながら一部政治家を守るための論外な法案をむりくり説明しているのです。

いま審議されている検事庁法改正案は、黒川氏の定年延長をあとづけで正当化するような法案です。かねてより検討されていた九つの法案に検事庁法改正案(内閣が判断すれば検事の勤務延長ができる)を急遽さしこみ、それらを一時に通そうとしています。もしも夏に黒川氏が検事総長になった場合、解釈変更と改正案により68歳まで5年間検事総長を続けられるそうです。

安倍政権は内閣人事局で官僚の人事権を握り、イエスマンを出世させてきました。さらに自分たちを逮捕する権限を持つ検察もコントロールしようとしているのです。新型コロナのドサクサで強行採決する法案ではありません。

自民・泉田裕彦議員が「(略)検察庁法の改正案は争点があり国民のコンセンサスは形成されていません。国会は言論の府であり審議を尽くすことが重要であり強行採決は自殺行為です。与党の理事に強行採決なら退席する旨伝えました」とツイートしたらソッコー委員を外されました。

小学校の学級会で、「民主主義は時間をかけて合意形成を図るものであり、少数意見も尊重する。多数決は最後の最後」と私は先生から教えこまれました。しかし熟議しないうちに「ケツとろ〜」と騒ぐガキがいましたね。それが与党政治家の姿です。

ハッシュタグをつけて抗議する芸能人を罵る安倍応援団やネトウヨもあるようですが、「国民主権」の国なんだから誰だって政治家に抗議する権利はあります。

よ〜く考えてみてください。

検事の定年延長で得する国民なんていないのです。安倍応援団やネトウヨにも直接的には利害がありません(批判をかわすことでおこぼれが期待できるかもしれませんけど)。では、法案を通過させることで直接得する人は誰なのか? 一部の与党政治家と官僚あわせて、10〜20人くらいじゃないかと思うんです。名前を挙げれば、…………ウッ…………バタン。

おいおい

毎日ゼーハー言わない程度に走ってますが、時事ネタについて書かせてくださいませ。いちおう狩猟採集社会に関係あります。

リンクの記事は、新型コロナの件で、自粛警察がウヨウヨ湧いていることについて書かれています。「あそこの店は営業してるぞ〜」「他県ナンバーのクルマが駐車しているぞ〜」と騒いで、誰かに頼まれたわけでもないのに、おそらく正義感に駆られて、自粛しない人を懲らしめる人たちがいるらしい。

記事を書いた人は、自粛警察についてこう書きます。

数万年前、狩猟採集時代に遡って考えてみよう。

人類の身体能力はけっして高いものではない。まともに戦えば、サルにさえ勝てないだろう。そんなひ弱な人類が、なぜマンモスのような大型の哺乳類動物を倒せたのか? 仲間と協力して戦っていたからである。「足並みを揃えて一丸となれた」、だから生き延びることができたというわけだ。
過酷な環境で個人主義的な自由行動は許されない。

「どうしようと個人の自由だ」などと、歩調を乱す人が一人でもいれば、たちまちマンモスに返り討ちにされてしまう。全体主義に協力できない人を放置した部族は早々に滅んでしまったはずだ。私たちの祖先は「足並みを揃えない身勝手な人をあぶりだし、懲らしめることを是とした人類」である。

人類の身体構造は狩猟採集時代からほとんど変わっていない。もちろん、脳の構造も変わっていない。ということは感情や感覚をつかさどる神経のしくみも数万年前のまま。つまり、「私たちの心のしくみは祖先のものと変わらない」ということだ。

「身勝手な人をあぶり出し、懲らしめること」を好むのは、「人間本来の本能」といってよい。

な、なんだこれ? よく断言できるな。

「サルにさえ勝てない」ってどういうことでしょう。サルと木登りで勝負するということか、サルと食糧を争うということか……。サルと殺し合うということであれば、弓矢の発明以降のヒトはサルに負けていなかったはずです。サルを食べる狩猟採集民もいます。

マンモスがいた時代のことは誰にもわかりませんが、人類が食糧のほとんどをマンモスに依拠していたはずはありませんし、仮に20人で構成される狩猟グループで「歩調を乱す人が一人でもいれば、たちまちマンモスに返り討ちにされてしまう」なんて雑過ぎて面白い。

現代にわずかに残る狩猟採集社会を見ると平等分配で社会が成立しています。

マンモスを追っていた時代と現代狩猟採集民ではルールが異なるという意見もあり得ます。そうであるなら、人類学・考古学的に「自主警察」をしていた証拠を明示しなければなりません。さらに、自主警察が狩猟採集民以来の人間の本能ならば、世界中に自主警察がなければならないのです。

私は「自主警察」とか「同調圧力」を、阿部謹也の「世間論」で説明できると思うんです。神と契約を結んでいない日本人は、罪を犯して神に罰せられることがない代わりに相互監視しながら牽制している……という比較文化論にもとづく考察です。

日本には司法のほかに「世間」という、善悪の物差しがあるのですよ。山本七平の『「空気」の研究』よりも本質を衝いていると感じているんですけどね。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

  • 作者:阿部 謹也
  • 発売日: 1995/07/20
  • メディア: 新書
 

アルセーニエフ『デルスー・ウザーラ』読了

ウラジーミル・アルセーニエフ著・長谷川四郎訳『デルスー・ウザーラ』上下巻(河出文庫)を読みました。私は「原作を読むまで観ない」と決めている映画がいくつかあり、黒澤明監督『デルス・ウザーラ』もそのひとつです。ちなみに、黒澤作品30本のうち未見は3本で、あとは『續姿三四郎』と『夢』です。

私は世界中の先住民(いちばん知りたいのは狩猟採集社会ですが)に関心があります。ふと、デルスーも狩猟で暮らす少数民族じゃないかと気づき、何年も積ん読だった河出文庫を出してきた次第です。読みはじめたら止まりません。朝5時までかかって読了しました。

ああ、いい冒険小説だった!……いや、これはドキュメンタリーなんだっけ?

アルセーニエフは軍人であり探検家です。軍事上の理由があってのことでしょう、謎多き極東ロシアを探検し、地理のみならず、植生、地形、人口など地誌全般を記録しました。本書に書かれたのは、1902年、1906年、1907年の探検です。日本海をはさんで樺太や北海道と対峙する密林(タイガ)はロシア人にとっては辺境の地だったことでしょう。

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1902年の旅の途中で、30歳のアルセーニエフは53歳のゴリド(ナナイ)人デルスーと偶然出会います。都市生活者が持ち込んだ天然痘により家族を失ったデルスーは、1人密林をさまよいながら狩猟をして暮らしていました。

ゴリドはツングース系の民族。調査した場所には同じツングース系ウデヘ族の人も住んでいますが、中国人や朝鮮人が現地民から土地や財産を奪っていたようです。ロシア協会に反対する〈旧信徒〉のロシア人も点在しています。海岸には日本人も現れていたらしい。

デルスーが調査隊と同行してからの冒険譚にやたらと昂奮させられます。彼はすぐれたハンターであり気象予報士であり名探偵です。景色や鳥の動きから天気をいちはやく察したり、動物や人間の足跡からその場でなにがあったを推理します。アルセーニエフはデルスーの機転がなければ何度も命を落としているはずです。もう一度書くけど、これ小説ではないの?

たとえば、デルスーと2人で野営地を離れ冬のハンカ湖(地図の左下にある大きな湖)を見にいったアルセーニエフはデルスーの忠告を聞かず長く留まったために大吹雪に襲われます。デルスーは機転を働かせてアルセーニエフを守りました。アルセーニエフが感謝を伝えると、デルスーはこう言います。

「わしら、いっしょにいき、いっしょにはたらく。ありがとう、いらない」
 そして話をべつの話題にかえようとするように、彼は言った。
「こんばん、人、たくさん、死ぬ」
 私にはデルスーのいう「人」とは鳥のことだとわかった。

デルスーはアニミズムを信じていて、虎もイノシシもみんな「人」と呼びます。

狩猟採集社会に共通に見られる平等分配をデルスーの行動に認めています。アルニーセフは、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読んでいたに違いありません。私は未読ですけど。

 午前十時頃、デルスーは肉を運んできた。彼はそれを三等分して、一つを兵士らに、一つを旧信徒に、一つを近所の小屋に住む中国人たちに分配した。兵士らがそれに抗議した。
「いかん」デルスーが反撥した。「わしら、そうできん。みんなにやるんだ。ひとりでみんなとる、わるい」
 この原始共産観念が、彼のあらゆる行為に、いつも一筋の赤い線のように通っていた。自分のとってきた獲物を、彼は民族を問わず、隣人みなに等分に与え、自分はそれと同じ分け前をとったのである。

デルスーの人柄、世界観、宇宙観の大きさに痺れてしまいます。

アルニーセフとデルスーの友情は上下関係がないように感じられます。互いを信頼しあい、ともに歩くのが心から幸せという感じです。1907年の旅のあと、目の衰えを感じるデルスーをアルニーセフはハバロフスクの自邸に連れて帰ろうとします。

これ以上はネタバレになるので書けません。長谷川四郎の訳文も上手い。手の入ってない自然の雄大さもよく伝わり、とても有意義な読書でした。

さて、映画なんですけど……。黒澤明がなぜこの原作に惹かれたか、なんとなくわかります。黒澤作品はジャンルが幅広いんですけど、一貫しているのは──ときにウエットすぎるほどの──ヒューマニズムです。デルスーの純粋で美しい魂に魅了されたのに違いありません。

ロシア映画のためか簡単に見られそうにありません。U-NEXTの黒澤映画でも『デルス・ウザーラ』だけが外れています。

マスクで走る話、おかわり

私はなるべく人の少ないところを狙い、鼻呼吸で走れるスピードでゆるジョグしています。山中伸弥教授のメッセージがお茶の間に浸透しているのか、他人の目が鋭い。いわゆるバフを首に巻いて(そろそろ暑い)、遠くに人影が見えたら鼻と口を覆い、ときには歩きます。マスクして走っている人、えらいなあ、と思います。

みなさんの意見を拝見しても、「マスク不要派」から「マスク絶対派」までさまざまな意見があります。誰もいないところでマスクする必要はないので、一概には言えますまい。まずは人がいるところを避けるべきだと私は考えます。

おそらく世間に衝撃を与えたであろうこの画像──。

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下記リンクの記事にもありますけど、これは時速14.4km(0.9mile)のシュミレーションだそうですよ。4分10秒/kmです。どんなスピードかというと、10km41分40秒。フルマラソン2時間55分です。つまりサブスリーの人がフルの大会でレースしているところです。私は最近そんなスピードで走っている人を見たことがありません。時速9.6km(0.6mile)くらいのシミュレーションがないと世間のいうジョギングと合致しないのではないでしょうか。

この研究は査読を受けてないいわゆるプレプリント段階です。もちろんゼーハーするスピードで走る人は飛沫をたくさん飛ばすおそれがあり、風向きも考慮しつつ他人とうまく距離をとる必要があるのでしょう。バフという、スースーとした布にどの程度効果があるかしれません。とはいえ、山中氏もおっしゃっているとおりエチケットとして着用したほうがいいのでしょう。

マスクでランニングしていたら中学生が突然死したという報道もあります。にわかに信じられませんけど。

  • 人混みは避ける。人のいないところを探しながら走る。
  • 1人で走る。
  • 息がはずまないペースでゆっくり走る。
  • 人とすれ違うときはエチケットとして鼻と口を覆う

──こんなもんですかね、私の結論は。