狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

四季の話

もうすぐ春ですね彼を誘ってみませんか、
春なのにお別れですか、
夏は心の鍵をあまくするわご用心、
夏夏ナツナツココナッツ愛愛アイアイアイランド〜翔んで夏しました、
真夏はゆかい真夏はゆかいワンダーワンダーブギウギ、
九月の雨はつめたくて、
いまはもう秋だれもいない海、
プラタナスの枯葉散る冬の道でプラタナスの散る音に振りかえる、
上野発の夜行列車降りたときから青森駅は雪のなか、
着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます、
なごり雪も降るときを知り……

私が子どものころ、季節がいろんな歌謡曲に歌われてきました(夏はちょっとおかしくなってますね)。季節のイメージは連綿と反復され、日本人に内面化されています。桜を見ると、心がなやぐと同時に、はかなく散る情景に寂しさをおぼえるように。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
(陽光がのどかな春の日に、なぜ桜は散ってしまうのだろう)

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平
(もし世の中に桜がなかったとしたら、春は心のどかだろうに)

おそらく日本人なら共有されている桜のイメージです。もっとも平安の桜は山桜であり、江戸後期からこっちのはソメイヨシノですが。

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ところで。日本を自画自賛するときに「四季がある」という決まり文句があります。私はあれが理解できないんです。英語で、spring、summer、autumn(fall)、winter と習いました。外国にも四季があるから対応する単語があるんですよね? 緯度が同じくらいの国なら気候も似通っているでしょう。外国の方が「日本は梅雨を入れた五季だ」と皮肉をおっしゃいました。俳句の季語では、梅雨は夏だそうです。

むかし、ぼんやりテレビを見ていたら、愛国心を涵養する模擬授業をやっていたのを思い出します。その授業が文科省で採択されたかどうかわかりませんけど、こんな感じでした。

女の先生が懸命に「日本は四季があって美しいでしょ。日本人は幸せでしょ」と力説。模擬授業ですから、多くの先生が見学していて、テレビカメラも入っています。私がもやもやしながら見ていたら、一人の女の子が手を挙げて、小さな声で、こんなことを言いました。「四季があるから幸せだというと、四季のない国の人たちは不幸せということになるから、おかしいと思います」。聡明な子だ、と私は感動しましたが、先生は「日本は四季があって美しいでしょ」とねじこみます。最後は、生徒たちが「四季がある日本は素晴らしい」という作文を書いていました。

一丁上がり。

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われわれは街路樹が黄葉するのを見て「秋だ。物寂しいなあ」と感じるけど、あれは自然を見ているわけではありません。街路樹や公園の樹は誰かが植えた木です。私が走る川沿いは護岸工事されています。日本人は自然なんて滅多に見てないのです。

最近、ハルオ・シラネ『四季の創造』(角川選書)という本を読みました。

著者は1951年東京生まれですが、アメリカ東海岸に育ち、第一言語は英語らしい。だから日本の文化を客観的に眺めることができるんでしょう。

平安時代、貴族が四季のイメージをつくりあげたけど、彼らは狩猟も登山もしたことがなく、庭木などの二次的自然を歌に詠みました。二次的とは人工的につくられた自然という意味です。四季は平城京や平安京の気候に合わせたものだから和歌には雪国や南国の風景や、熊、狼、猪、兎などは出てきません。一方、庶民には里山という二次的自然がありました。田圃は日本の原風景なんていうけど、もちろん誰かの手で改造された光景です。

時代を経るにしたがい季題に決まったイメージが与えられていくのもおもしろい。戦国時代、里村紹巴による連歌論書『連歌至宝抄』(1586年)には、《春でも大風や大雨のときはあるが、「春雨」や「春風」を読むときは、あくまでも春らしく「物しづか」に表現することが「本意」だ》とか、《「夏の夜」はあくまでも「短い」ことを前提に「暮れたらすぐ明ける」などと歌に詠む必要がある》とか書かれているそうです。なんだか窮屈な話ですが、それがむしろ教養なのかもしれません。《確立した連想に依存することは束縛ではなく、むしろ創作のために豊かな土台であった》。

武士の時代が到来したあとも、和歌の文化的価値は衰えることなく権威となり、四季の概念は立花(華道)、茶道、能、歌舞伎などにも継承されていきます。連歌や俳諧も生まれました。近世になると貴族文化の年中行事や花見などのイベントが庶民に浸透しました。

──なるほど、現代では、田舎でも都会でも自然なんてまずお目にかからないわけですけど、テレビやコマーシャルやヒット曲などのメディア、古文の授業、華道、茶道、和菓子、着物の柄、年中行事などで季節のイメージを反復することで、「日本人は自然と調和している」「日本人は季節の移ろいに敏感」だと信じてしまうのかもしれません。

でも、その誤解があるから、日本で環境保護運動が盛り上がらないのではないかとシラネ氏は警鐘を鳴らしています。鋭い指摘でした。