狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

南高尾山稜、失敗続きの巻

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来年からランニングクラブに入ることにしてしまったし(酒だよ、酒のせいだよ! ちくしょう、あの日、呑んでなければポチらなかったのに……)、少し持久力を戻したいのと、やはり人間はたまには自然に囲まれなきゃいけない気がして、本日はトレイル。トレラン……と言いたいけど、早歩きみたいなもんでした。

天気がいいらしいので、珍しく早起きして高尾山口駅へ。

南高尾山稜をトレイルラン(早歩き?)してきました。地図の右上のほうにある高尾山口駅に着き、着替えやジャケットをコインロッカーに預けます。カチャッとスマホが落ちました。

高尾山に背を向け、ほぼ8時半に出発。甲州街道に出て(トリックアート美術館の逆方向)南下して最初の信号のところであたりを見回していると、四辻方面を指し示す表示が見えます。

四辻への急勾配ですでにゼエゼエ。

まずは草戸峠目指します。

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高尾山と違い、人はまばらです。小休憩まじえて13〜15分/キロくらいで。大垂水峠のバス停のあたりまで、2時間くらいのつもりです。

 

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9時21分。久しぶりのトレイルはなかなかきつい。

秋はトレランに向かないと以前思っていたけど、理由はなんだったっけ?……とスタートしたんですが、すぐに思い出しました。落葉が木の根っこや石を隠しているから、足をガツンッとやっちゃいがちなんですよね。

それにしたって、なんか足もとが見にくいなあ……あっ!
 
オ、オレ、遠近両用のメガネかけてきちゃった!

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ええっと、これどこだっけ。展望台がありました。城山湖が見えます。9時35分。

この写真を撮るころ気づきました。
 
ス、ス、ス、スマホの画面が割れてる!
 
そっか、コインロッカーの前で落としたときだな。

私は iPhone SE を使っているのです。小さいほうが走るさい便利なので。そろそろ買い換えたくもありますが、「次こそ、画面の小さいモデルが登場するかも」と期待して、サポート終了になるまで待つことにしました。電池が劣化したので、数日前に交換したばかりです。

画面の保護フイルムを貼っていたんですけど、だいぶんキズがついたので少し前に剥がしたのでした……しくしく。幸い、あまり目立たないので、保護フイルム購入して貼っておきます。

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10時20分。

木の枝でつくったフックが並んでいて「リュック掛け」と書かれていました。なるべく走りたいのでまき道を多用しましたが、片側が急な崖になったシングルトラックもあり、そういう道が苦手な人は怖いかも。

10時40分。あと500mで大垂水峠……と思ったら。

 
なんてこったい、通行止めだ!

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教訓=よく調べて行くべし。

あれこれあって、12時過ぎには高尾山口駅に着きました。ふう。

高尾山周辺でも、台風での土砂崩れを散見しました。

みなさんはチェックのうえお出かけください。

『火星のタイム・スリップ』

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

 

L・ヴァン・デル・ポスト『カラハリの失われた世界』(1958)の話をしたところ、ある知人がフィリップ・K・ディック『火星のタイム・スリップ』(1964)に似ていると教えてくださったので、ハヤカワ文庫で読んでみました。若い自分の私はリアリストだったせいか、SF小説に馴染んでこなかったのです。フィリップ・K・ディック作品は『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』くらいしか読んでいません。映画『ブレードランナー』の原作ですが、私は小説のほうを評価しています。

『火星のタイム・スリップ』はラストが衝撃的な傑作でした。タイム・スリップってそういう意味だったのか!?

当時の精神分析の研究なども反映されているはずですが、今回はブッシュマン関連のことだけ書きましょう。

断言します。

作中に登場する火星の原住民ブリークマンは、にヴァン・デル・ポストが映像に残してBBCで放映したり、書物に書き残したブッシュマンをモデルにしているのです。フィリップ・K・ディックは1961年に発表された『狩猟民の心』(私は未読)も読んでいたのではないかろうか? 「飼いならされたブリークマン」という表現が何度か出てきます。私は好ましいとは感じませんが、伝統的な生活をやめ白人に仕える人びとを「飼いならされたブッシュマン」と記述することがあるんです。ヴァン・デル・ポストも『狩猟民の心』でその表現を用いているようです。

『火星のタイム・スリップ』の半ばで、地球から来た主人公の父親がこう言います

《「あれが火星人なのか……先住民の黒人か、アフリカのブッシュマンのようだな」》(208ページ)

ブリークマンは卵を水筒にしていますが、『カラハリの失われた世界』のブッシュマンはダチョウの卵に水を入れます。BBCで放映された番組には、撮影を終えて帰路につくヴァン・デル・ポストに、小さな女の子が水が入ったダチョウの卵をプレゼントするシーンがあります。やらせというか演出でしょうけど。

物語のポイントとなるブリークマンの聖なる山「汚れた瘤」は、『カラハリの失われた世界』でも重要なポイントとなる「すべり山」です。飼い慣らされたブッシュマンに案内されて著者ヴァン・デル・ポストはすべり山に行き(おそらくは実体験ではなく創作でしょうけど)、さまざまな超常現象を体験します。すべり山は、いまは観光地になっているツォディロ・ヒルズと思われます。

不思議なのは、両作の関係やブッシュマンとブリークマンについて言及したひとがいないことです。英語でも検索してみましたが、探し方が悪いのかヒットしません。

カラハリの失われた世界 (ちくま文庫)

カラハリの失われた世界 (ちくま文庫)

 

講座「人類は何を食べてきたか?」

先週の話です。「人類は何を食べてきたか?──フィールドワークから探る肉食の30万年」という講座を聴いてきました。世界中をフィールドワークされる池谷和信先生の講演で、イヌイットを研究される岸上伸啓先生がホスト役でした。

ハラリは、認知革命・農業革命・産業革命というふうに人間社会の変化を区分していますが、池谷氏は認知革命より火を使う料理革命が人間にとって大きかったのではないかとおっしゃっています。私もそのように感じます。

全体を乱暴にまとめれば「人間はなんでも食べてきた」というお話でした。果物、植物、木の実、動物、虫……地域によっていろんなものを摂取する食の多様性が人類の強みだったといえます。肉しか食べないイヌイットもいます。肉のなかでも、クジラ、犬、カメ、サルなどいろいろです。最終的に獲得したのが1万年前あたりから栽培が始まる穀物です。

ヴィーガンでもパレオでも、好きなように食べて生きていけるでしょう……が、人間が増えすぎました。畜産環境問題など、全人類込みで将来のことを考えなきゃいけない段階に入っているのは間違いありません。

ところで。質疑応答で「狩猟採集民には脳卒中や癌がないというが実感としてはいかがか。仮に本当ならば食事によるものと思うか」とたずねた人があり、池谷氏は「聞いたことがない」とおっしゃいました。あれ、そうなの? その話題を引き継いで質問しようかとも思いましたが、終了時間を過ぎているようなので黙っていました。

私も狩猟採集生活には非感染症は少ないと読んでいるのです。手許にあるのでダニエル・E・リーバーマン『人体六〇〇万年史』から引用します。

(略)狩猟採集民は小集団で暮らしているが、それは母親の出産間隔が長く、生まれた子供が乳幼児期に死亡する率も高いからだ。とはいえ、近年の狩猟採集民は必ずしも一般に想像されているような不潔で野蛮な生活をしてはおらず、短命でもない。幼児期を無事に生き延びられた狩猟採集民は、概して長生きする。最も一般的な死亡年齢は六八歳から七二歳のあいだで、ほとんどの人は孫を持ち、なかには曾孫まで持つ人もある。大半の人の死亡原因は、胃腸か呼吸器への感染症、マラリアや結核などの病気、さもなければ暴力や事故である。また、いくつかの健康調査から、先進国の高齢者の死亡や障害の原因となっている非感染症の病気のほとんどは、狩猟採集民の中高齢者にはまったく見られないか、見られたとしてもかなり珍しいことがわかっている。もちろん調査の数が限られているとはいえ、とりあえず報告されているかぎり、狩猟採集民のなかで2型糖尿病や、冠状動脈性心疾患、高血圧、骨粗鬆症、乳がん、喘息、肝疾患を患っている人は皆無に近い。さらに言えば、痛風、近視、虫歯、難聴、扁平足といった、ありふれた軽い疾患に悩まされている人もほとんどいないように思われる。むろん、狩猟採集民が完璧に健康な状態で一生を送れるというわけではなく、とくにタバコと酒がますます普及してきてからは、健康への悪影響も大きいだろう。しかし、それでも今日の多くのアメリカ人高齢者に比べれば、なんら医療的ケアを受けていないにもかかわらず、彼らのほうが健康であるように見受けられるのだ。
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫版『人体六〇〇万年史』下巻112ページ、太字は引用者による)

記述のもとになった論文は巻末に挙げられています。

狩猟採集生活と現代生活の違いは、身体活動や生活習慣、食生活、人口密集度など多岐にわたります。原因をひとつにしぼりきれるものではないでしょう。しかし、近眼が読書やモニタのせいであるように、非感染症が見られない要因もなにかに隠されているはずです。リーバーマンも、それを探ろうと提唱しています。

私は食生活のフィールドワークするのであれば彼らの健康状態も観察すべきだと思いますが、今回の講師の方はべつの問題意識をお持ちなのでしょう。 

ジョグノートやめるってよ

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ある日突然、ジョグノートにこんなリリースがありました。
 
JogNoteは2020年3月末を持ちましてサービス終了いたします。
 
ガーン。

 

私がジョグノートに記録をつけはじめたのは2007年のことらしい。つまり12年分の記録が残っているわけです。いや、ラン記録は GARMIN CONNECT や STRAVA にも残っていますけど……。

黙々と記録をつけていましたが、ある日突然「友だち百人できるかな」と思い立ち、リンクフリーの人を片っ端からリンクしてみました。2010年8月のことらしい。すると世界が激変。見知らぬ人たちと交流がはじまり、駅伝チームをつくったりイベントやレースのあとで打ち上げをやったりしたのです。全員が全員いい人だったというわけでもありませんが、おおむね好ましいやりとりでした。

ジョグノートは SNS として使い勝手が良かったわけではありません。でも、みなさんとの交流は忘れがたいのです。5、6年くらい前までは、あそこに冗談を書くためだけに走っていたようなものでした。

Facebook や Instagram で交流している方もいますけど、もう走るのをやめてしまったらしいあの人やこの人(強制的に Yahoo! アカウントで再登録されたときに振り落とされているはずですが)とわずかな再会の可能性もなくなり、コメント欄でのやりとりもできなくなるんですね。残念。

 

※ちなみに、何年何月を「もちまして」という表現はよく耳にしますが、本来は何年何月を「もって」なんです。漢字で書けば「以て」。「もちまして」を誤用とまではいいませんけど、漢字で書けませんよね。「持ちまして」という表記はあきらかに間違いです。以上、今日の豆知識でした。

出来心で、つい。

来年から一年間、近所のランニングクラブに入会してしまいました。

短距離の練習(ドリルやダッシュや筋トレ)やっているうちに、ふだんのジョギングも少し感じがいいんですよね。そんないい気分のときにメンバー募集の要項を読んでしまったのです。サブ3.5くらいが目標のクラブだというので、酔っ払ったときに、つい出来心で……。

まあ、いいわ。近所のラン友をつくって、少し苦しむか。

とにかく、入会金等を払ってこなきゃ。

スポーツと戦争

未開社会の生業は段階的に変化してきました。エルマン・R・サーヴィスは『民族の世界』で次のように整理しています。

  1. バンド(少人数血縁型集団)=移動的狩猟採集生活をする
  2. 部族(トライブ)=バンドより大きい。定住し、園耕や牧畜をする
  3. 首長制社会=人口がより稠密になり高度に社会化される。余剰は再配分される
  4. 原始国家=領土観念や政治的な力を集中した政治機関を持つ大規模社会

少数ですが、世界ではそれぞれの段階で留まる人びとがいます。

その人たちを観察することで、人間社会の変容のしかたがわかってきました

よく、オリンピックは国家間の代理戦争だとか、スポーツに政治を持ち込むな、なんてことが話題になります。

それを考えるために、スポーツはどの段階で生まれたかを考えてみましょう。……以下は、スポーツの歴史を知らない私の推理です。笑って読み捨ててください。

英語の「sport」の語源は、気散じ・気晴らしだそうです。バンド社会ではよくダンスをします。気散じ=スポーツの最初はダンスではないでしょうか。もちろん狩猟や遊びで走ることがあり、暮らしと遊戯とスポーツはが明確に分かれていたわけではありません。ダンスだって遊戯であり気散じであり、儀礼・祭祀などの意味がこめられるケースもあったはずです。

首長制社会では戦争が生まれ、同時にいろんな競技も生まれます。

20世紀初頭の首長制社会タヒチでは、いろんな対抗運動競技が確認できたそうです。集団で行うサッカーやホッケーに似た競技、個人競技のボクシング、レスリング、競歩、競泳など。それらは地域間で争われる「精神的戦争」で、「ほとんどすべての競技が、攻撃的に行われ、なかには危険きわまりないものもいくつかある」とサーヴィスは書いています。ランニング、ダンス、ハンティング、登山などは労働や遊戯と区別できなかったのに対し、ルールのある競技ができ、勝敗や順位を決する競技が生まれたのです。

歴史的に見ても、何千年前か知らないけど首長制社会の段階で戦争とそれを模した対抗競技が始まったのではないでしょうか。

となると、近代スポーツは国家間の争いとは切っても切れません。資本主義が成熟すると、その代理戦争はほんものの戦争と同じく金を生みはじめました。オリンピックやサッカーのワールドカップに戦争のムードが漂うのは自然なことだと私には思えます。そのようにして生まれたんだから

もしもオリンピックや国際スポーツイベントから政治性を排除したいなら、国家のメダル数など競わず、選手の国籍やアイデンティティも問わないほうがいい。集団で競うスポーツは、せめてラグビーワールドカップみたいな協会主義にする。それじゃ国際大会の体をなさないというなら、やめてもいいと私は思います。スポーツイベント多すぎじゃ。

民族の世界―未開社会の多彩な生活様式の探究 (講談社学術文庫)

民族の世界―未開社会の多彩な生活様式の探究 (講談社学術文庫)

 

『民族の世界』

エルマン・R・サーヴィス『民族の世界──未開社会の多彩な生活様式の探究──』を読みました。初刊は1958年。伝統的な社会を段階的に整理してまとめています。翻訳は抄録で、23の社会のうち、10を紹介しているらしい。

目次は以下のとおりです。
 
・バンド
 アンダマン諸島人
 カラハリ砂漠の!クン・サン(ブッシュマン)

・部 族
 上部ナイル河のヌアー族
 アメリカ南西部のナパホ族

・首長制社会
 メラネシアのトローブリアンド諸島民
 ポリネシアのタヒチ島人

・未開国家
 ペルーのインカ帝国
 南アフリカのズールー族

・現代民族社会
 ユカタンの村チャンコム
 モロッコの村
 
サーヴィスは、血縁的小集団から徐々に人が多くなることで、人びとの暮らしや意識が変容していくことを示しています。

血縁的小集団であった人びとは移動するため財産を持ちません。平等分配社会で、男女や子供の区別がなく、一神教ではもちろんない。定住をはじめ、園耕、牧畜などがはじまると、財産ができ、部族間抗争が起きるようになります。首長がいる社会でも、まだ仲間内では平等分配的ですが、徐々に階層が生まれていき……徐々にわれわれの知る社会に近づいていくのです。

学術書だから面白さを求めてもしかたありませんが、アンダマン諸島人やブッシュマンの社会がいちばん面白く、次第に驚きのない社会になっていきます。だから後半はなかなか進まず、まいりました。

人類学の古典的らしいんですが、類書を一冊だけ読みたいという方には尾本恵市『ヒトと文明』をおすすめします。

民族の世界―未開社会の多彩な生活様式の探究 (講談社学術文庫)

民族の世界―未開社会の多彩な生活様式の探究 (講談社学術文庫)

 
ヒトと文明: 狩猟採集民から現代を見る (ちくま新書1227)

ヒトと文明: 狩猟採集民から現代を見る (ちくま新書1227)