未開社会の生業は段階的に変化してきました。エルマン・R・サーヴィスは『民族の世界』で次のように整理しています。
- バンド(少人数血縁型集団)=移動的狩猟採集生活をする
- 部族(トライブ)=バンドより大きい。定住し、園耕や牧畜をする
- 首長制社会=人口がより稠密になり高度に社会化される。余剰は再配分される
- 原始国家=領土観念や政治的な力を集中した政治機関を持つ大規模社会
少数ですが、世界ではそれぞれの段階で留まる人びとがいます。
その人たちを観察することで、人間社会の変容のしかたがわかってきました。
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よく、オリンピックは国家間の代理戦争だとか、スポーツに政治を持ち込むな、なんてことが話題になります。
それを考えるために、スポーツはどの段階で生まれたかを考えてみましょう。……以下は、スポーツの歴史を知らない私の推理です。笑って読み捨ててください。
英語の「sport」の語源は、気散じ・気晴らしだそうです。バンド社会ではよくダンスをします。気散じ=スポーツの最初はダンスではないでしょうか。もちろん狩猟や遊びで走ることがあり、暮らしと遊戯とスポーツはが明確に分かれていたわけではありません。ダンスだって遊戯であり気散じであり、儀礼・祭祀などの意味がこめられるケースもあったはずです。
首長制社会では戦争が生まれ、同時にいろんな競技も生まれます。
20世紀初頭の首長制社会タヒチでは、いろんな対抗運動競技が確認できたそうです。集団で行うサッカーやホッケーに似た競技、個人競技のボクシング、レスリング、競歩、競泳など。それらは地域間で争われる「精神的戦争」で、「ほとんどすべての競技が、攻撃的に行われ、なかには危険きわまりないものもいくつかある」とサーヴィスは書いています。ランニング、ダンス、ハンティング、登山などは労働や遊戯と区別できなかったのに対し、ルールのある競技ができ、勝敗や順位を決する競技が生まれたのです。
歴史的に見ても、何千年前か知らないけど首長制社会の段階で戦争とそれを模した対抗競技が始まったのではないでしょうか。
となると、近代スポーツは国家間の争いとは切っても切れません。資本主義が成熟すると、その代理戦争はほんものの戦争と同じく金を生みはじめました。オリンピックやサッカーのワールドカップに戦争のムードが漂うのは自然なことだと私には思えます。そのようにして生まれたんだから。
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もしもオリンピックや国際スポーツイベントから政治性を排除したいなら、国家のメダル数など競わず、選手の国籍やアイデンティティも問わないほうがいい。集団で競うスポーツは、せめてラグビーワールドカップみたいな協会主義にする。それじゃ国際大会の体をなさないというなら、やめてもいいと私は思います。スポーツイベント多すぎじゃ。
民族の世界―未開社会の多彩な生活様式の探究 (講談社学術文庫)
- 作者: エルマン・R.サーヴィス
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1991/03
- メディア: 文庫
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