最近読んだ本についてメモ。
マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』(1876)『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)を読みました。人類学を読んで「自由」や「幸福」について考える私は、しびれちゃいましたよ。
前者は小学生のときに読みましたが、アニメにすっかり上書きされていました。
トム・ソーヤーは不真面目でいたずらっ子ですが、学校にも教会にも通っていますし、なにがいけないか理解しています。そして、おそらくかなりの冒険譚に通じていて、それらをもとにトムは「ごっこ遊び」をしているのです。自分の葬式に戻ってくる話、殺人現場を目撃する話、インジャン・ジョーのひそむ洞窟の話……。海賊ごっこをしているうちに大きな冒険になってしまいます。
ラスト、浮浪児だったハックルベリーは裕福な未亡人の養子となりますが、窮屈な服を着て勉強やお祈りなんかしたくありません。『ハックルベリー・フィンの冒険』では、酒飲みの父親から身を隠すため、ハックリベリーは筏やカヌーでミシシッピ川をくだりはじめました。主人から逃れた黒人ジムと一緒です。彼らは、漂流した場所で奇妙な人々と知り合います。詐欺師ふたりと旅するくだりは少々冗長でしたが、トムが現れてからの「ごっこ遊び」は楽しかった。
『トム・ソーヤーの冒険』は神の視点で書かれましたが、『ハックルベリー・フィンの冒険』は一人称で書かれています。したがって、ハックルベリーとジムがセントピーターズバーグの町から消えたのち、トムや町の人がどんな反応をしたのかわからないところが終盤を効果的にしています。
驚いたのは、ハックルベリーが芸術を解し、機転がきき、聡明であることです。また、ごっこ遊びのなかの自由人であるトムと違い、ほんものの自由人です。社会にひそむあらゆる制約が、彼にしてみれぱ苦痛なのです。わかるわかる。
『ハックルベリー・フィンの冒険』は窮屈な社会を諷刺しています。黒人差別を追認しているかどうかがアメリカで論争になったそうですが、作者に差別する意識はないと感じました。ごっこ遊びの代償で大怪我したトムを介抱してくれた医師や、ラストのジムのセリフなどで、物語はうまく収束しました。お見事。