狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

テレビを見ると羽生結弦選手が血を流していた

いま、フィギュアスケートは少女マンガを読むように見られています。

採点方法やこまかい技術のことはほとんどの人がわからない。華やかそうに見える選手の優雅な動きやジャンプ、失敗、人間関係などを、一種の物語として自分のなかで構築し、あるいはSNSなどでみんなと話し合いながら楽しんでいる。
私はフィギュアスケートをほとんどチェックしていないんですが、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の戦いぶりは、連載の長い少女マンガを読むかのようにみんなが楽しんでいると感じていました。北島マヤと姫川亜弓みたいにね。

そしてまた、2年くらい前から羽生結弦という、顔、体型、名前までばっちり少女マンガチックなスター選手が現れました。
土曜日の夜中にテレビをつけました。スポーツニュースをやっていて、画面に流血した羽生選手が映りました。一瞬、ハロウィンを連想しましたが、あれは一週間以上前に終わったイベント。練習中にほかの選手と激突したんだそうです。それでも演技をして2位になったらしい。そして観客は感動したらしい。
「ああ、やはり少女マンガだわ」と、その思いを強くしたのでありますが。
残念ながら、羽生選手は紙の上に描かれた、まわりに星がキラキラ舞うキャラクターじゃなくて生身の人間なのですよ。ほんと、お大事に。

視聴者はスポーツを見ながら内心アクシデントを待ち望んでいるのです。あたたかく見守っているつもりでも、多かれ少なかれハプニングを心待ちにしている。スポーツ中継も「テレビで起きること」という意味ではバラエティ番組やドラマと同じ。
そのうえ近年、観客は「感動すればいい」「泣ければいい」と思っているフシさえあります。ほら、オリンピックで勝とうが負けようが、スタンドで応援しているファンは「感動をありがとう」というボードを掲げている。自分が感動すればいいのです。ボードも1枚ですむしね。

 肉離れだったけどオリンピックの柔道で優勝した。
 脱水でフラフラになったけどマラソンのゴールにたどりついた。
 半月板損傷したけど千秋楽に出て優勝した。
 体調不良で箱根駅伝を走った選手がリタイアした。
 投球過多の高校野球の投手が決勝戦も一人で投げ抜いた……。

こういう事態を見て「休ませるべきだ」という冷静な人もいます。「よくありません」という中継解説者もいます。しかしテレビの視聴率は上がる。観客は「感動」する。予期せぬハプニングを制作スタッフも視聴者も心のどこかで期待しているのです。ケガした羽生選手が演技をすると聞き、「こりゃおいしいぞ」とソロバンをはじいた興行サイドの人間がいたとしても私は驚きません。
羽生選手も貴乃花関も安楽投手も「出ます」と言った。この日のために準備してきたのだし気持ちも充実しているのだから当然です。あなたが選手でもそう言うに違いない。だから、まわりの人間が客観的に彼らの状況を判断するしかありません。選手を守るガイドラインが必要です。高校野球の球数制限はいつまで経ってもできないけどね。競技や選手はマンガじゃありません。感動を「与え」つづけて消費されるために存在しているわけじゃないもの。