狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

動かなくなったジョアン・ジルベルト

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久しぶりにきつい坂道をジョギングしました。楽しかった。いい感じでお尻やハムに刺激が入りました。最近は、1日7〜8kmくらいしか走らないので、負荷を高めるために坂道を走ろ。

さて、先日、ジョアン・ジルベルトが亡くなりました。88歳だったとのこと。私は1度だけコンサートに行きました。「最初で最後の来日か」と宣伝していたので、チケット取ったんです。

「週刊新潮」の記事(上の画像は一部)に、《ジルベルトさんが万雷の拍手のなか、動かなくなってしまったことがあった。しかも20分以上》とあります。

私、その場にいたんです。2003年9月16日のこと。以下は、むかし公開した日記より。

《夕方、 東京国際フォーラムへジョアン・ジルベルトの公演に。

ボサノヴァの神様、たいしたおじさんでした。開演時間に1時間以上も遅刻。みんな静かに待っていましたが、私は「こんなに遅れやがって。端折ったら承知しないぞ」とカリカリしていました。

20時を過ぎてやっと登場。

ギター一本でささやきかけるように歌い始めると、気分がとろとろになります。待たされたことなど忘れて演奏に聴き惚れました。

何曲か終わると、うな垂れて……次の曲が始まりません。

動かないのです。

ライブ中に寝るなんてことある? 機嫌でも損ねてる? もしかして……? 場内がざわつきます。名前のコールと拍手が自然とわき起こり、大きくなっていきました。しばらくすると「みなさんは間違っている。彼は拍手がやむのを待っていま〜す!」と絶叫しながら、会場を走り回る若者も登場。(きみはどうしてそう言い切れるんだ? 超能力者なのか?)

30分くらいかな。大混乱。すると、袖の向こうからスタッフらしき日本人がゆっくり歩み出て、ジルベルトの背後から両肩を軽くポンと叩きますと、ハッと上半身を起こし、なにごともなかったようにギターを弾き始めました。

結局、アンコール後も延々歌いつづけ、終わったのは23時近くでした。》

ゲッツ/ジルベルト~50周年記念デラックス・エディション

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小池祐貴選手、9秒98。

ロンドンでのダイヤモンドリーグ陸上で、小池祐貴選手が9秒98(+0.5m)とのこと。おめでとうございます。あまりニュースになってないようですが……。

今シーズン、次に9秒台で走るとしたら小池選手だと私は言ったでしょ。ほほほ(あれ、書いたのは別のところかな)。海外レースでの達成は大きい。ただ、このタイムで4位ですよ。

ちなみに、200mは20秒24(+0.9m)で4位。2位までが19秒台で、優勝した謝震業選手はアジア記録の19秒88でした。

日本人同士のレースが9秒台で決まる時代が来たのは確かですが、これを「1人が切れば、『10秒の壁』の精神的な足枷が取れ、どんどん9秒台を出す」と説明する人がいます。ほんとですかね。

その説明のもとになっているのは、絶対に越えられないとされた「マイル(1600m)4分の壁」を1954年にロジャー・バニスターが破った途端、数十人が次々と壁を破った事実を基にしています。でも、当時の陸上選手は、スパイク、トラック、練習方法などが発展途上にあり、しかも選手は完全なアマチュアでした。現代の100mとは同一視できません。

フランスのルメートルがコーカソイドとして初めて10秒を切ったのは2010年。以後、10秒を切った白人はわずか4人(多分)かな。

モンゴロイドとして10秒を初めて切ったのは2015年の蘇炳添選手。中国人選手としては2018年に謝震業選手が達成しました。日本人は、2017年に桐生祥秀、今年サニブラウン・ハキームと小池が立て続けに9秒台をマークしました。

これは、10秒を切ったコーカソイドやモンゴロイドや日本人の最初の選手のおかげで精神的障壁がなくなり次々に9秒台で走った……といえる人数でしょうか。

すべて「10秒の壁」精神論で片づけたら、当人の努力やコーチなどのサポート、スポーツバイオメカニクスなどの研究に対して失礼な気がするんです。

パーフェクトマイル―1マイル4分の壁に挑んだアスリート

パーフェクトマイル―1マイル4分の壁に挑んだアスリート

 

山本太郎の魅力

投票日前日、多摩センター駅前まで往復14km走り、れいわ新選組の街頭演説をたっぷり聴いてきました。

 

このたびの選挙では、山本太郎に注目していました。改元ブームに乗じた「れいわ新選組」という党名をつけ、公明党・山口那津男候補とと対立する候補者を出したり、自民党が自分たちの候補者のためにつくった比例の特定枠を利用するなど、やってくることがいちいち面白い。ムーブメントを起こしそうな予感がありまして。

国会ウォッチャーである私は、山本太郎を高く評価しているんです。

脱原発ワンイシューで立候補した直情的な男だと思っていたら、どんどん成長していきました。憲法や議会制民主主義の基本をしっかり抑え、ルールのなかで行動できるようになりました。野党にも有能な議員はたくさんいますけど一味違います。タブーかなと思っていたことを堂々と総理大臣にぶつけたりするのを見て、命を賭けているとさえ感じます。勉強を怠らなかったのでしょう、人間は6年でこんなに成長するんですね。

とくに立派なのは、弱者に目を向けているところです。

ホームレス、シングルマザー、生活保護世帯、過労死問題、福島県民・沖縄県民、知的障碍者、奨学金受給大学生、外国人労働者……と、山本太郎は社会的弱者への支援を国会で訴えてきました。たとえば、2016年、全国にある17の入管施設で、腐った食事が出された件数は395回だと山本はあきらかにし、失言の櫻田五輪担当大臣に「人権無視のこんな国でオリンピックやるのか」と問い詰めていました。

彼の政策の目玉は、消費税ゼロなどの経済政策ですが、それも貧困層の救済という意味合いがあります。

すなわち山本太郎の魅力は、弱者に目を向け、無私の精神で活動することです。原始的な狩猟採集生活のような、平等で思いやりに満ちた社会に憧れる私が彼を支持しない理由がありません。

でもほんとはね、政治家って山本太郎のような人なのです。今は「自分が当選するために、自分の支持層さえ儲かればいい」と考える世襲の政治「屋」が多すぎます。江戸時代の殿様じゃあるまいし、政治は家業じゃないんです。

30分くらい前に着くと、もうだいぶん人が集まっていました。何度目かの寄附(個人献金)をしました。集まった寄附は4億円を超えたそうですね。

演説が始まる前、コンビニにミネラルウォーターを買いに行っていたら、山本太郎が1、2人のスタッフと会場に向かって歩いていました。すれ違いざま片手を挙げて「頑張って」と言うと、クルッとこちらに向き直って気をつけし、「ありがとうございます」と頭を下げられました。政治家はみんなそうかもしれませんけど、ちょっと恐縮。

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演説を聴いた翌日曜日、比例の投票用紙には「山本太郎」と書きました。(東京都選挙区は、当落上にある野党候補を戦略的に選びました。残念ながら一歩及ばず……)

比例の3番手として出馬した山本太郎は当選できませんでしたが、彼は予想していたように感じます。自分が比例から立つことで票を集中させ、重度の障碍者と難病患者を議員として国会に送り込みました。意義あることだと思います。それに、彼はマスコミの力を借りず、裸一貫からはじめて政党要件を満たしたのです。これも大きい。

山本太郎は次の衆院選で当選してくれることでしょう。

ナチュラルとは、天賦の才のこと。

大学時代、友人との会話。

私 「おい、『生まれ変わったら何になりたい?』って訊いてみて」
友人「生まれ変わったら何になりたい?」
私 「加藤剛」
友人「なんだ、それ」
私 「もう一回訊いて」
友人「やだよ」
私 「お願い、もう一回」
友人「わかったよ。生まれ変わったら何になりたい?」
私 「ロバート・レッドフォード」
友人「…………」

 私、レッドフォード(加藤剛、似てるよね)が出演する映画をなるべく見逃さないよう心がけています。この映画も、観に行くでしょう。

テレビではなく、ロバート・レッドフォードの新作映画を初めて見たのは、浪人のときに公開されたバリー・レビンソン監督『ナチュラル』でした。

1920〜30年代のアメリカ。天賦の才を持つロイ・ハブスは大リーグ入りが決まり郷里を離れましたが、ある事件に巻き込まれ、消息を絶ちます。十数年後、ニューヨーク・ナイツに現れた35歳の謎の新人スラッガーが、そのロイでした。彼の活躍により低迷していたチームは躍進し始めます……。ちなみに、主役を演じたレッドフォードの実年齢は50歳近かったとか。

映画の構造は単純な勧善懲悪ですけど、チームを乗っ取ろうとする判事はじめ、八百長に引きこもうと誘惑する悪い奴ら、幼な馴染みで恋人のアイリス(グレン・クローズ)との再会などがストーリーに膨らみをもたせています。さらに古き良きアメリカの風俗、映像の美しさ、想像を超えるラストシーン。スポーツ映画特有の興奮とレッドフォードの格好良さが相俟って印象に残る作品でした。
 野球映画としては、のちに『フィールド・オブ・ドリームス』などもヒットしましたが、私は『ナチュラル』が好きです。日本の野球映画であれば、岡本喜八喜劇『ダイナマイトどんどん』です。スポーツ映画ではなく、チャカと刀をバットとグローブに持ち替えた任侠映画ですけど。

『ナチュラル』はわかりやすい映画ですが、当時19歳の私には「白」が幸運を「黒」が不幸をもたらす、といったことに気づきながら物語の分析に興味を持ち始めたのでした。映像上の仕掛けにも興味がわきました。のちに何度もビデオを見直して、ロイの初ヒットに伏線がある(◎◎がほつれている)ことを見つけたりするのも楽しい。

最後に見たのはいつだったかな。十回以上見た『ナチュラル』にも、まだまだ発見の余地がありました。こちらがマラソンを走るようになっていましたから、つい気づいてしまうのです。

ロバート・レッドフォードは、左足は踵着地だけど右足はつま先着地。

あれれ、こんな情報、不要でしたか?

映画『新聞記者』・若者と選挙・サードプレイス

私、こないだからずっと日本の階級社会について考えています。女はなかなか参入できない男中心の父権的上下関係。軍隊的・ヤクザ的・部活的なピラミッド。

今日、映画『新聞記者』と「若者が選挙に行かない」という話題についてボンヤリ考えていました。どちらも《階級社会》というキーワードでつながる気がするんです。

今朝やっと映画『新聞記者』を見ました。ヒットしているようですが、平日の朝9時少し前からの上映ですから、観客は10人くらいでした。

新聞社に舞い込んだリーク文書を追いかける女性記者(シム・ウンギョン)と、先輩の自殺を機に本格的に自分のいる組織を疑う内閣情報調査室の官僚・杉原(松坂桃李)の話。現政権で問題になった現実の疑惑がほとんどそのまま出てくるエンタテイメント映画です。不満もあります。たとえば、主役の記者と杉原の信頼関係がもっと丹念に描かれてもよかったかな。とはいえ全体的にスリリングで面白かった。杉原は正義のために権力者に抗うのか、それとも──。最後のシーンがわかりづらいという話がありますが、杉原と自殺した先輩の家族構成や二人の立場の相似、女記者とその父の記事の相似を考慮し、ラストの杉原の表情や口の動きを見逃さなければ、彼らの今後が明示されている気がします。多分ね〜〜。

杉原が所属する日本の官僚組織も上下関係が絶対です。みんな熱心に勉強していい大学に入り国家公務員試験に合格してキャリアとして入省したら、そこにまたガチガチのヒエラルキーが待っている。上から命令されれば抵抗できない。公務員は「国民全体の奉仕者」であるのだから、杉原の行動は正しいはずですが、絶対的な組織の命令に背くことはたいへんなリスクを負うことになります。

ところで。

選挙が近いので「若者の投票率の低さ」を嘆いたり分析したりする文章を見かけますが、私はこう考えるんです。

学級会や学級委員・生徒会長選挙などで、小学生のころからみんな合意形成や多数決や疑似選挙を経験するんですが、しょせん最高権力者は先生です。誰が学級委員・生徒会長になったって自治権を与えられていないからクラスや学校運営に変わりはありません。みんな自分の1票が学内政治に影響を及ぼす体験を持たないまま育ちます。

さらに、彼らには意味不明で理不尽なブラック校則や上下関係が絶対の部活があります。運動会では赤組・白組の得点とはまったく関係ない行進や組体操などを延々練習させられ、同調性を植えつけられる。もし立場の弱い子供が大人に楯突けば反動も大きい。それより権力者の顔色をうかがい、空気を読むほうが生きやすいと感じる子供はたくさんいるはずです。

近現代史や政治や社会問題を深く学ぶ機会もない。それより試験勉強が重要です。

考えない訓練をさせられているようなものです。ルールを決めるのは遙か頭の上にいる人々だと思い込まされている。こんな学校生活を送ってきた若者が選挙権を与えられたとたん選挙に行くでしょうか。ある日突然、「自分は主権者である」という意識が突然芽生えたら奇跡です。

小学校からずっと階級社会で飼い慣らされる日本人。就職後、会社と家の往復だけで何十年も過ごし、その組織ではそこそこ出世したとしましょう。読む物は仕事関連の本や、人心掌握術などのビジネス本。そんな人が、定年やリストラなどで階級社会からいきなりポッと放り出されたら、どうなるでしょうか。肩書きとともに力を失い、得意の人心掌握術も発揮できません。家にしか居場所がない、ということになってしまいます。

社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した「サードプレイス」という概念があります。家と職場以外の、心地良い平等なコミュニティをそう呼ぶのです。

日本はとくに息苦しい階級社会ですから、「社会的地位」とは関係のないサードプレイスを持つのがいいのではないかと思います。町内会やボランティアなどの社会活動、草野球チームへの参加やアマチュアバンド、趣味のサークルなど。偉い政治家のお宅で碁を打ったら、相手は「社会的地位」に忖度して負けてくれるかもしれません。でもね、碁会所では、偉かろうが無職だろうが、肩書きは関係ないのです。

もしあなたがマラソンやトレイルランナーであれば、たくさんラン仲間がいるでしょう。でも、誰がどんな仕事をしているかよく知らないし興味もない。余計な敬語も要らない。頑張って走ったあと、共通の話題で吞めば、それだけで盛り上がれるのです

『55歳からはじめるフルマラソン』を書かれた小説家・江上剛さんは、元エリート銀行マン。走り始めた著者が、まさしくサードプレイスを発見したことが記されています。

 男は、仕事の関係は多くある。しかし近所の関係はあまりないだろう。エリートと言われる仕事一筋の人ほど、その傾向がある。
 銀行の人事部にいた時、いわゆるお荷物行員(評価が低く、昇格が遅れている行員)の研修を担当したことがある。その時、彼らのほとんどが近所の子どもたちにサッカーや野球を教えていることに驚いた。
「そのエネルギーを、少し仕事に向けてほしい」と私は彼らに話したが、今思えば、失礼なことを言ったものだ。仕事の人間関係は上下関係で、仕事を続けてさえいれば、自然と出来上がる。しかし親友が出来る可能性は少ない。仕事が変わったり、大勝すれば自然消滅してしまうことが多い。
 一方、近所の人間関係は、自分で努力して作らねばできない。(略)私は、今まで努力を怠っていたのだ。今、やっとその努力を始めたというわけだ。

努力といったって、最初だけだよね。

俳句仲間、カメラ仲間、テニス仲間……踏み出せばどんどん増えていきます。

息苦しい世の中、第3のコミュニティで息抜きしましょう。

サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

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55歳からのフルマラソン (新潮新書)

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上下関係や差別のない社会【狩猟採集民に憧れる理由 3/3】

二度ほど、理不尽な経験談を書きました。【狩猟採集民に憧れる理由】最終回、一番長文になりそうです。ごめんなさい。

いろんなハラスメントやブラック校則や #KuToo 運動などが連日ニュースになります。日本の軍隊式上下関係から比較的自由で、空気を読まなくてもすんだ私から見ると、社会に蔓延する不合理な上下関係や差別はとても奇妙です。

 

『神聖喜劇』の「知りません」禁止、「忘れました」強要問題

私は12年間つとめてから会社を辞めました。好きな仕事だし、威張った人も少ないし、人間関係の不満は少なかったんですが、ちょっと忙しくなりすぎました。大西巨人『神聖喜劇』全五巻を読んだのはその年です。以下のエピソードは第一巻に登場します。

1942年、対馬要塞の銃砲塀聯隊に補充兵として入隊した主人公・東堂太郎は、教えられてないことを「知りません」と言いました。すると、軍隊では「知りません」は許されない、「忘れました」と言え、と上官に叱責されます。理不尽に感じた東堂は、《「知りません」禁止、「忘れました」強要》問題を徹底的に考え抜きます。どんな軍紀にも、「知りません」を禁じた規則はありません。

あるとき気づきました。《下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理でないのか。》《言い換えれば、それは、上級者は下級者の責任をほしいままに追及することができる。しかし下級者は上級者の責任をみじんも問うことができない、というような思想であろう。

部下に責任を押しつける上官は、さらにその上官から責任を押しつけられ……という無限の無責任スパイラルが行きつく先は……と考えて、東堂は戦慄します。無責任上級者の上の上を辿れば、《「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」の唯一者天皇が見出される》と思い至ったのです。すべての責任を阻却される遙か頂点を仰ぎ見れば、そこに天皇がいる。絶対的な権力とヒエラルキーがあれ、自分はピラミッドの底辺で責任を押しつけられる。

軍隊に限った話ではありません。軍隊は「特殊ノ境涯」ではないのだ、ということを明らかにするために大西巨人はこの大長編を書いたのですから。

 

『菊と刀』に書かれた日本の階層意識と「応分の場」

戦時中、軍の無謀な命令に従った兵士たちが何十万人も死んでしまいました。

ルース・ベネディクト『菊と刀』を読んだのは数年前でしたか。アメリカ人による日本研究です。戦中に日本を分析したことをまとめ、1946年に公刊されました。誤解も散見されますけど、とくに前半は鋭く日本人の本質を衝いています。

(略)日本人は秩序と階層的な上下関係に信を置き、一方、わたしたちアメリカ人は自由と平等に信を置く。両者の間には天と地ほどの隔たりがある。(略)日本人は階層的な上下関係に信頼を寄せており、それは人間関係や、人と国家の関係における基本となっている。

日本人を考察するなら、彼らが階層社会を生き、そのなかで「応分の場を占め」て行動をすることを理解せよと、著者は書きます(彼女は、天皇制を廃止しても、日本人は新たな主人に黙って従うことを見抜いていました)。

戦後75年近く経ちます。日本は民主主義らしいけど、みんな主権者で、みんな平等?……いえ、依然ガチガチの階級社会です。日本では、学校・部活・会社などで、上下関係を叩き込まれます。出る杭は打たれる。分を知れ。下の者はへりくだれ。あの、奇っ怪な敬語はなんですか。「ご覧ください」ですむものを、わざわざ「ご覧になっていただけますでしょうか」だなんて卑屈すぎる。

複雑な階層を生き抜くには才覚が必要です。パーティ会場で大企業の部長と中小企業の社長と同席した場合、先にビールを注ぐ相手を瞬時に判断しなければならない。部署に新入社員が来た場合、社長のコネか否かで接し方を変えなきゃならない。ありとあらゆる条件から自分と相手の「応分の場」を判断し、ふさわしい振る舞いが求められます。頭がいいけど階層社会のルールを知らない人は面倒くさいだけなのです。やんなっちゃうぜ

 

2015年のSEALDs批判やSNSを見て

みんな主権者のはずなのに、政治に口を出したら叱られる人がいます。

2015年、安保法案反対デモをする学生中心の団体 SEALDs が注目されました。私もデモ参加の折、彼らを見かけましたが、火炎瓶を投げるわけでもなく、ルールに基づいて行動する姿に好感を抱きました。ところが、彼らに対し、「若者は政治に口出すな」「生意気だ」と声を浴びせる人たちがいるのです。あれれ、以前、「若者は政治に無関心だ」なんて世間は嘆いてなかったっけ。

なぜ若者は政治批判をしてはいけないのでしょう。選挙権がない子供ですら世界情勢や政治をスポーツやアニメと同じように批評していいはずです。

SEALDs 批判のなかに「就職できないぞ」というのがありました。それを見た小心者の私は生まれたての子鹿のようにブルブル震えました。怖いセリフです。「大人が全部決めるんだ、若者は応分の場にいて権力に従え。さもなきゃ階級社会から閉めだすぞ」と脅すのです。寒気がします。

子供のくせに、女のくせに、新入りのくせに、在日のくせに、病人のくせに、地方のくせに、貧乏人のくせに、非正規のくせに、外国人労働者のくせに、芸能人のくせに……階級意識がうみだす差別的言辞はあちこちに蔓延しています。

日本は平等社会ではありません。息苦しい。

ちょうど選挙の時期です。私の Facebook の友人には、政治の話をする知り合いがたくさんいます。でも、よく見ると、みんな私同様フリーランスなんです。

会社員は政治的発言、とくに政権批判をしません。階層社会にからめとられた会社員は秩序を乱さず緘黙することが正しい振る舞いだからです。デモを報じるテレビのニュースで、インタビューに応えるのはたいてい主婦や老人です。彼らは階層社会から比較的自由です。一方、参加者に会社員がいたとしても「顔バレ」すると生活しづらくから、インタビューにはほとんど応えません。

会社員は組織のなかで応分の場を占め、彼らの所属する会社は日本社会の応分の場にいる。階級を飛び越えて上の批判はできません。「お上に逆らっちゃなんねえ」か。時代劇じゃあるめえし。……ああ、息苦しい。

もっと言えば、日本は国際社会のなかで応分の場を得ているつもりです。すなわち、西欧にコンプレックスを抱きつつアジアの覇者として振る舞おうとする。戦前の八紘一宇とまるで同じです。

 

『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』の衝撃

日大のタックル問題は軍隊式上下関係が生み出した事件でした。公文書の改竄・隠蔽もそう。ピラミッドの底辺は責任を感じるが、上は責任を阻却されます。

では、絶対服従すなわち応分の場にとどまれと言わない社会はどんなものか。

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』を読んだのは2017年暮れ。読みながら椅子から転がり落ちるほどの衝撃を受けました。日本の小学校高学年にあたる学齢で、スウェーデンの小学生は次のようなことを習います。

社会の教科書の第1章「社会」。法律、規則、規範は変えられるとあります。

学校に髪型や服装に決まりがあり、それが不当だと感じられたとしましょう。そしたら毎日奇抜な髪型やファッションで学校に行ってルールを変えさせちゃえ、と書かれているのです。小学生の教科書に、ですよ!?

髪型やファッションを変えて規範を打ち破ってやろうとするなら、それを何度も繰り返しているうちに、それでいいのではないかと思われるようになるかもしれません》。

ブラック校則に黙って従えという日本とは違います。私は6年生のとき担任に抗議したことで険悪になったけど、スウェーデンではいちおう耳をかたむけてくれるらしい。感動しちゃった。

第2章「メディア」には、ネットとの付き合い方が書かれています。どうせ、ネットリテラシーについて書いてあるんだろ、という予想は覆されました。

スウェーデンの教科書には、あなた自身も社会に影響を与えられると書かれているのです。みなさん、Facebook や Twitter を通じて発信者になりましょう、と薦めています。新聞への投書、SNSの活用、人を集めてデモをすること、政治家に直接訴えることなど、積極的に世論を形成してオピニオンリーダーになりましょう。そして……《(略)学校の職員や両親、近所の人々、コーチ、そして最終的に政治家を味方につけるためには、誤字などの誤りがなく、正しく書くことが重要となります。あなたが、しっかりと準備が整っており、ちゃんとした文章が書け、そして自分の意見を冷静にしっかりと伝えることができるということを示しましょう

と、国語や論理的な文章を書くことの重要性が続きます。すごい。

スウェーデンは小学生も、自立した個性ある人間なんです。かの国からグレタ・トゥーンベリが出てくるのは偶然ではありません。

 

『ヒトと文明』にみる狩猟採集生活の特徴

裸足ランや低炭水化物食から狩猟採集民に興味を持ち始めたんですけど、彼らの社会が幸せそうなことに驚きました。息苦しい都市生活者の私はすっかり心を奪われました。恋だわ。

尾本恵市『ヒトと文明』によれば、農業や交易を始める前の古典的狩猟採集民や、定住し園芸をする狩猟採集民には次のような特徴があります(*マークのある項目は、豊かな食料獲得者=アフルエント・フォーレジャーのなかに例外があることを示す)。

  1. 少数者の集団(子どもの出生間隔が比較的長い)。
  2. 広い地域に展開して定住する(低い人口密度)。
  3. 土地所有の観念がない(共同利用)。縄張り意識はある。
  4. 主食がない(多様な食物)。
  5. 食料の保存は一般的ではない。*
  6. 食物の公平な分配と「共食」。平等主義。*
  7. 男女の役割分担(原則として男は狩猟、女は育児や採集)。*
  8. リーダーはいるが、原則として身分・階級制、貧富の差はない。*
  9. 正確な自然の知識と畏敬の念にもとづく「アニミズム」(自然信仰)*
  10. 散発的暴力行為・殺人(とくに男)はあるが、「戦争」はない。*

彼らには、王様もないし奴隷もない。階級がないから「応分の場」があろうはずもない。財産がないので争いも起きない。そのへんで食料は得られるから労働時間は短い。そもそも労働という観念が稀薄である。性別による役割分担はあるが、基本的に男女平等である。財産分与がないから父系社会か母系社会か、決まりはない。子供も大人もない。全員が顔見知りだから思いやりにあふれている。

食事のせいか運動のせいか気持ちのせいかわからないけど、何万年もかけて環境に適応した彼らには、癌や心臓病、脳卒中などの非感染症が滅多にない。自殺も鬱もない。死亡率の高い乳幼児期を生き延びれば、病院もクスリもないのに70歳くらいまで生きる。

まるでユートピア。理想的すぎて、こわいくらいです。最近はなるべく狩猟採集生活の悪い面を書いたレポートを探し回っているくらいです。

みんな裸になって森に入ろう、とは言いません。農耕を始めて以来、爆発的に人口が増え、もう後戻りできないことはわかっています。それにしても──進化・進歩を称賛し、「未開」の部族と蔑んできた狩猟採集民のほうが幸福に見えるなんて!?

私は考えました。18世紀にルソーが原始的な人たちを観察することで自然権を発見したように、人間が何百万年も過ごした生活を知ることで、むかし体験したような理不尽な上下関係や、いわれなき差別や、内なる差別意識に気づき、大虐殺を回避し、息苦しさから逃れる方法が見つかるのではないか……。

たとえば、スウェーデンはじめ北欧では、大きな政府が社会福祉を充実させ、「再配分」を行っています。狩猟最初生活にみられる《食物の公平な分配と「共食」。平等主義》に近いのです。小さな政府で新自由主義を標榜する日本よりも、私は北欧のほうが人間的な社会に見えます。

私には「AIと人間」などより「狩猟採集民と現代人」について考えるほうが、いまとても重要な気がするんです。(おしまい)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

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菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

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スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか

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ヒトと文明: 狩猟採集民から現代を見る (ちくま新書1227)

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30年前の引率【狩猟採集民に憧れる理由 2/3】

間が空きましたけど、続きです。

 

私は中高一貫教育の私立に通いました。中学の最初のテストで成績が芳しくなかったので勉強はとっとと諦め、3年ほど将棋に熱中しました。将棋部の狭い部室には中学高校の6学年が混在しましたが、実力がものを言いますし、威張った人もなく、先輩後輩の関係は絶対ではなかったのです。

大学では寝たり起きたり酔っ払ったりバイトして本代を稼いだり論文を書いたりしていました。若かったゼミのC先生や仲間と煙草を喫っては生意気な議論ばかりしていたものです。C先生や同級生や後輩とはまだ飲みに行きます(先月も行きました)。先生とタメ口をきくのは私だけだ、とよく言われます。丁寧語くらい使いますよ。

就職した会社も、わりと自由に仕事させてくれました。

さいわい私は、日本的・軍隊的・運動部的な絶対的上下関係とは無縁に過ごしてきたのです。空気を読むとか、世間のルールとか、比較的気にしないほうです。

大学2年の7月。大きな塾で小学生相手のバイト講師をするXは、2泊3日でおこなう林間学校の引率を募集していました。対象は小学3、4年生でした。

Xが提示した条件は「バイト代は最低2万円。働きに応じて上乗せする。倍出すこともあるかもよ〜」でした。査定するのはX自身とのこと。自分だってバイトのくせに、同級生を評価する? 私のXに対する個人的な人物評は「威張っている。頭脳明晰ではない。附属校からの入学者で、附属組ネットワークを駆使しテストの情報を得るような世渡り上手」でした。そんな奴に査定されるのはごめんでしたが、仲のいい友人はじめ同級生が何人も行くというので迷ったすえ引き受けました。

 いよいよ当日。総勢百数十人の小学生を十数人のグループに分け、男女ひとりずつの大学生が担当します。私は初対面の女子大生とグループを受け持つことになりました。彼女、なかなかかわいい。気乗りしなかったど、案外楽しい3日間かも……?

子供がギャーギャー騒ぐバスのなか、彼女が私に訊きました。
「ねえ、mugibatake40ro(仮)くん、子供好き?」
ええっ? 出会ったばかりなのに子供が好きかどうかなんて……もしかまさか、君はボクたちの家族計画について話そうというの?
「うん、まあ、わりと好きなほうかな……」と答えました。
彼女は「あたし、嫌い」と言って目を閉じ、眉間に皺を寄せました。

目的地に到着してから彼女の姿が消えました。聞けば、具合が悪いと言って帰ったんだとか。お大事に……。私はひとりでグループを引率することになりました。

その日が何年何月何日かはググればわかります。夕食前、宿舎のテレビでオールスター戦を見たんです、清原対桑田の初対決。清原がライトにホームランを打ちました。

塾側の段取りが悪かったり指示系統に不備があったりして、初日からバイト連中はひそひそ不満を漏らしていました。私はXに文句を言うと、彼は「査定に響くぞ」というのです。はあ? 彼はバイトと雇用主の橋渡しになる気などなく、終始、雇用主としてわれわれに接しました。

午前2時くらいに小部屋に集められました。2人につき1本、小瓶のビールが出ましたが、そんなもん一口でなくなります。明日の予定などを延々聞かされました。追加のビールが出てくる気配はありません。

いちばん偉い塾の先生が「意見があれば遠慮せず言ってください」とひとりずつコメントを求めます。ところが、どうでしょう。あんなに不平不満を言っていた連中はお追従笑いしながら「いい人生勉強になります。感謝です」などと抜かすのですよ。

私の番になりました。「あれとこれとそれと、全部ひどいから明日は改善してほしい」と不満を吐き出しました。機嫌が悪いためイヤミな表現も使っちゃった。お開きのあと、数人が「よくぞ言ってくれた」と私の肩を叩きます。なんだよ、いい人生勉強になりますって、俺はお前たちにも腹が立つ。

2日目。

宿舎は磐梯山のスキー場に面していました。食堂に集合した子供たちに、いちばん偉い先生が「植物採集をします。みんな、何種類あつめられるか、競争だぞ、それっ!」と発破をかけました。みんなワーッと外に飛び出します。冬になると雪に覆われる斜面を駆け登り、子供たちが草を摘みはじめました。その様子を眺めながら「国立公園でこんなことしていいのか」と囁くと、隣のMも「そうだよな」と頷きます。

予定よりずいぶん早く戻るように命じられました。なにごとかと思えば、いちばん偉い先生が子供に説教をするのです。

「こら、ここは国立公園なんだぞ。先生はひとり三種類しか採っちゃいけないと言ったじゃないか! ◎◎、君はなんだ、こんなにたくさん草を採って!」

先生はきっと管理人みたいなひとに叱られたんです。でもね、草をむしったのは絶対に子供のせいじゃない。子供たちよ、大人の横暴に立ち向かえ!……ん?……あれあれあれ、みんなうなだれて聞いてるじゃないか。君たちは本当に「三種類まで」と言われた記憶があるのかっ?

われわれ短期バイトは後ろに突っ立って聞いていました。私はブチ切れ、「この噓つきっ。植物をどんどん採れと言い、競争だぞ〜って煽ったのはあんただろっ」と叫び、目につくものを全部をぶちまけて立ち去りたい衝動をグッとこらえました。説教が終わってからXに「いくらなんでもいまのはひどい」と言えば、返事は例の「ハハ、査定に響くぞ」です。「なんだ偉そうに。勝手に響かせとけ」と言いました。セコセコ単位取るような奴に威張られたくないわ。

腹の立つことばかりの3日間でした。子供は可愛かったけど。

あ、ひとつだけ痛快なことがありました。2日目の夜のキャンプファイヤー。2番目くらいにえらい先生が、「みんなのひとつになった気持ちが炎となって燃えています」みたいなポエムを語っていたとき。

ドカーン、バリバリバリ!

轟音に振り返ると、猪苗代湖の花火大会が始まっていました。子供たちがハイトーンの歓声をあげます。われわれの立つ高台は絶好の鑑賞スポットでした。先生が「こら、見ちゃいかん」と向き直させますが、ドカーン、ドカーン、バリバリバリの連続だもの。あの爆音を無視できるはずありません。何度命じても子供たちは花火に見惚れます。花火の明かりが子供の笑顔を照らしました。ついに先生も諦めたようです。

最後まで打ち上げ花火を堪能してキャンプファイヤーを見ると火が消えていました。

みんなの気持ちが消えてるやん。私はアハアハ笑いました。

東京に戻って1週間くらいあとでしょうか。数人でつるんで、塾にバイト代をもらいにいきました。ほかのやつがもらった封筒には4万円やら5万円やら入っています。

私は2万3千円でした。

これでも勉強したんだぞ(まけてやった、という意味)みたいなことをXが言いました。お前が勉強したとこ、見たことないけどな。

俺は女の子のパートナーがいなかったんだぞ。そういえば、すぐ帰った彼女にも最低保障の2万円を払ったとXが言ってたっけ。不快な2万3千円。酒吞んでトイレに流してやりました。

なるほどたしかに「人生勉強」になったけど、あの後も理不尽なことをする人たちに黙って従えず、バイトでは何度かもめたなあ。

 教訓──権力に服従すると儲かるかもしれないが、そんな人生はゴメンだ