ううう。忙しい。
昨日は、ついに多忙を理由にした、今年初めてランオフでした。
前の日曜日、2年ぶりに東京十社ランに参加。52.6km走ったので、22日の段階で月間距離は351km。ジョグだけですけど。
とりあえずの近況報告でした。
仕事します。深夜、走れるかなあ。
近年、スポーツ中継と映画くらいしかテレビを見ない私。金栗四三が主人公だと聞き、大河ドラマ『いだてん』は食事しながらいい加減に眺めています。東京オリンピック招致に関しては影の部分が書かれないでしょうから、田畑政治が出はじめたら見るのを辞める気がしますけど。
★
後藤正治『マラソンランナー』(文春新書)は本邦マラソン黎明期から選んだ八人のランナーにスポットを当てていまして、当然のことながらトップで扱われるのが金栗四三なんです。
朝鮮占領時代に日本代表として1936ベルリンオリンピックに出場し金メダルを獲った朝鮮人・孫基禎、戦後初めて国際マラソン(ボストンマラソン)を制した広島出身ランナー田中茂樹のこともぜひ知っていただきたい。孫も田中も足に履いていたのは「金栗足袋」でした。
後藤は、参考にした金栗の伝記について下記のように書いています。
熊本にあるラジオ局、エフエム中九州社長の長谷川孝道は、金栗の足跡をもっともよく知る人であろう。熊本日日新聞の記者時代、金栗の自宅に通い詰め、評伝を連載した。百三十回に及んだ連載は『走れ25万キロ──マラソンの父 金栗四三伝』(講談社)という本となって残っている。本章の記述の多くも長谷川の話と評伝に拠っている。
長谷川は熊本・済々黌高校─早稲田大学時代、陸上の短距離とジャンプの選手だった。新聞社で運動部に所属したのはそんなキャリアが買われてのことだったろう。一九六〇(昭和三十五)年、熊本で国体が開かれることが決まった。それに合わせた大型企画ということではじまったページであったが、連載は随分とのびた。記事が好評であったこと、それに金栗への取材が興味津々、おもしろかったからである。
当時、長谷川は二十代の若手記者、金栗は六十代半ばであった。長谷川が玉名の屋敷に行くたびに、おう、懲りずにまた来たか、といわんばかりの微笑を浮かべて若い記者を迎えた。その笑顔が、まず浮かぶ金栗像として長谷川にいまも残っている──。
現在、『走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版)』として刊行されているのが、多分それです。関連本はいろいろ出ていますが、すべてこの本を元にしているはず。少年時代のことから、細かすぎるくらいエピソードが満載です。大河ドラマの下敷きにもなっているのは明らかです。
と、ひとまず紹介。
ドラマ『いだてん』については、また。
走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版)
前置きしますが、2020年東京オリンピックには私は当初から一貫して反対しています。徹頭徹尾、反対です。裏があるのにおもてなし。
講談社編『東京オリンピック』(講談社文芸文庫)読了。講談社文芸文庫はタイトルを箔捺ししますが、本書は収録作家名の明朝体まで箔にしちゃいました! 菊地信義先生、さすがです。
多くの作家がものした1964年東京オリンピックに関する文章のアンソロジーです。何人か、好きな小説家の名前があります。もしかすると、私の知らないオリンピックの負の側面が記録されているのではないかと、購入しました。
「一、開会式」「二、競技」「三、閉会式」「四、随想」という章立て。全体に軽い読み物です。最初の三章、つまらないとは言いませんが昂奮することもなく……。大半が平凡な素人スポーツ観戦記です。選手にインタビューした文章もなければ世界情勢やオリンピックの影の部分もほとんどない。新聞社にチケットもらって現地で観戦した素人記者の記録でした。現地で見ることで、たとえばモノクロテレビに映らない開会式のカラフルさを伝える価値はあるでしょうけど、そんなことは新聞記者にもできること。「その作家にしかできない見方だ」というのが案外少ないのです。柴田錬三郎の剣豪小説風ウエイト・リフティング評や、富田常雄の柔道評は楽しめましたけど。
非凡な書き手は三島由紀夫です。身体の美や躍動に対する理解の深さが他を圧しています。「『美と力』の接点・体操」より引用しましょう。
はいっていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を観たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる鋏を入れて、まっ白な切断面を次々につくってゆくような美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体のまわりの空間を、どんよりと眠らせてほうっておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体。全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を与えつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思い切った放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、人間はたしかに昔、神だったのだろうという気がする。というのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、全く彼の支配下にあるように見え、選手が演技を終って静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、まだピリピリと慄えて、彼に属しているように見えるからだ。
うまい! 複数収録された三島由紀夫の文章だけ読んでもいいかも。
大江健三郎もなかなか面白かったけどね。
オリンピック賛辞を立て続けに読むうち、「これは昭和39年の文学報国会だな」とウンザリしてきました。もともと大会に興味がなかったという菊村到は、ウエイト・リフティング観戦記で、こう書いています。
しかし、だんだん期日がせまってくるにつれて、われながら信じがたいことに、なんとなくそわそわしはじめてきたのであり、オリンピックというものが、おれの生きているあいだ、もう二度と、おれの目の前で、おれが生活しているこの同じ日常的な平面で、おこなわれることはないのだから、やはりこれは千載一遇の好機というべきなのだというような奇妙に切迫した感情に追いつめられ、まさか、自分ではそこに足をはこぶことはあるまいと思っていた競技場に、ついに足をふみいれることになってしまった。
こういう心理的な経過に、私は記憶がある。つまり、戦争にまきこまれていったときの、あのプロセスに似ていると思うのである。(略)
反対していても、雰囲気に呑み込まれていくのは戦争と同じだというのです。そして文学報国会のような短文をものするという……。重要な指摘です。
狂騒から距離をとった「四、随想」に、少し良いものがありました。中野好夫はオリンピック期間中、東京を離れてテレビで観たそうです。そういえば、私の知っている或る作家(故人)は、開会式当日に伊豆に新婚旅行に行ったのでした。『いだてん』で秀逸なタイトルロゴをデザインした横尾忠則さんは、オリンピックのデザインチームの一員でしたが、大会期間中は洋行しています。日本人全員が熱狂に巻き込まれたのではないのです。本書の最後に収録された小田実の文章は、北朝鮮やインドネシアが大会直前に帰国させられたことやナショナリズムについて書いています。オリンピック一色の非日常な嵐のあと、大局から観た理知的な文章を読むとホッとします。
探せば、オリンピックの影の歴史を書いた作家がたくさんあるに違いない。私なら、そういうのを集めるんだけどね。
★
解説の高橋源一郎はだいたい私と意見が一致していました。仮に2020東京オリンピックが開催されるなら、高橋氏には厳しいことを書いてもらいたい。
第37回全国女子駅伝、観ました。
個人的に注目していた選手を列挙します(敬称略)。丸数字は走った区間です。
① 廣中璃梨佳(長崎・長崎商高)
① 髙松智美ムセンビ(大坂・名城大学)
① 鈴木優花(秋田・大東文化大)
① 鍋島莉奈(高知・日本郵政)
④ 松田瑞生(大坂・ダイハツ)
⑨ 鈴木亜由子(愛知・日本郵政)
⑨ 新谷仁美(東京・NIKE TOKYO TC)
みなさんナイスランでした。3区の南日向選手(千葉・葛飾中)は知らなかったけど、大会記録タイの走りは素晴らしかった。
結果(PDF)、愛知が堂々の優勝。2秒差の2位でタスキを受け取った時点で、鈴木亜由子選手の逆転は約束されたようなものでした。
どの駅伝でもそうですけど、沖縄県が最下位を免れるかどうかにも注目しています。今回は島根に10秒の差をつけて46位でした。
おっと自分のランニング。
その他、用事を済ませていたりして、今日はやっと22時にスタート。日付またいで16kmのジョグでした。今年はジョグとLSD中心に「たくさん走る君」になります、宣言したんです。13日を終えた時点で1月の総距離は208km。
前回書いたように、今年は数年前のように月間400kmを目指します。私はほとんどジョギングのみでフルマラソンのタイムがあがったクチです。伸び盛りだった2011〜2013年は、年間4536km、4544km、4439km走っていました。今年もそのレベルまで戻したい。
距離走るのはケガのもと……という意見も重々承知していますが、市民ランナーはウルトラマラソンだって走りたいし、長く走ったあとはたくさん飲みたいものよ。
たくさん走るといっても、休まないつもりはありません。
たとえば、月間300kmが目標として話を進めましょう。9日で100km走って1日休むことを3回繰り返せばいい。これを「10日サイクル」と呼ぶことにします。5日で合計60km走って1日休む6日サイクル、4日で50km走って1日休む5日サイクル、2日で30km走って1日休む3日サイクルなども考えられます。それらを組み合わせる(たとえば5日サイクルのあと、休日を利用して3日サイクルにするなど)ことで、適度に休みをはさみながら月間300kmを達成できます。スピード練習は休日明けとか、休日前に入れればよいのです。
なに、目標距離を日割りにし、たとえば5日サイクルならそれを5倍にしただけのこと。5日分を4日に配分して、1日休みましょうという単純な考え方ですが……。
いちおう、月間目標と◎日サイクルについて表にしておきます。5日C(サイクル)とは4日走って1日休むという意味です。ひとつきを30日として計算しています。
2日C | 3日C | 4日C | 5日C | 6日C | 7日C | |
---|---|---|---|---|---|---|
200km | 13.4km | 20.0km | 26.7km | 33.4km | 40.0km | 46.7km |
250km | 16.7km | 25.0km | 33.4km | 41.7km | 50.0km | 58.4km |
300km | 20.0km | 30.0km | 40.0km | 50.0km | 60.0km | 70.0km |
350km | 23.4km | 35.0km | 46.7km | 58.4km | 70.0km | 81.7km |
400km | 26.7km | 40.0km | 53.4km | 66.7km | 80.0km | 93.4km |
450km | 30.0km | 45.0km | 60.0km | 75.0km | 90.0km | 105km |
500km | 33.4km | 50.0km | 66.7km | 83.4km | 100km | 117km |
550km | 36.7km | 55.0km | 73.4km | 91.7km | 110km | 129km |
600km | 40.0km | 60.0km | 80.0km | 100km | 120km | 140km |
私は、春までは400〜450kmあたりを目安に走ります。
1月1日休んだあと2日と3日で64km走りました。いちおう、三が日で64km走ったと考え、翌日ランオフにしました。つまり4日サイクルで64kmです。(400〜450kmの場合、4日サイクルだと53.4〜60km)
5日に32km、6日に20km走り、計52km。今日休んで3日サイクル(400〜450kmの場合、40〜45km)にしてもいいんですが、さほど疲れてないのであと2、3日走るつもりです。つまり5日サイクル(同、66.7〜75km)もしくは6日サイクル(同、80〜90km)を目指します。
追記=仕事で7日は走れず……。8日に15km走りました。
あけました、おめでとうございます。
1月5日から6日にかけて書いています。
そろそろ仕事しなくちゃいけません。
ニューイヤー駅伝での旭化成の逆転劇、箱根駅伝の東海大学の優勝(東洋大学の見事な往路優勝、青山学院大のまさかの総合2位!)などもボンヤリ見まして、ランニングに関係のない本なども読みまして、寝たり起きたり酔っ払ったり。
ここ数年、走る量も減り、スランプにはまったままですが、今年は基本に立ち返り、
たくさん走る君になる
と決めました。
以前は、月間400kmが基本で、夏には500kmというのもありました。「人より才能がないんだからたくさん練習しなければ」と考えていたものです。事実、私は学生時代に持久走が最も苦手でした。瞬発系の運動は得意だったんですけど。「ちょっと練習したらすぐに速く走れた」というような方がありますが、私にはそんな奇跡は起きません。
初心忘るべからず。
地道に練習します。昨年始めたタバタなども怠ることなく、月間400kmくらいは走ることにします。ほかにもやりたいことはあるんですが、今年は走ることに集中したい。
とにかく、頭を飼い慣らして、
気づけば走っていた
といえる状態にしなくてはなりません。
1月1日 ランオフ
1月2日 34kmジョグ(自宅〜高尾山口駅=写真〜八王子駅)
1月3日 30kmジョグ
1月4日 ランオフ
1月5日 32kmジョグ
こんなふうな年明けでした。2日の走り初めでは THE NORTH FACE の MARTIN WING(旧型)を背負って走り出したんですが、すぐにベルトが壊れてしまうアクシデント。このザックとはあちこち一緒に出かけました。何年もランにつき合ってくれてありがとうと言いたい気分。家に引き返し、GREGORY ルーファス12 を背負いました。このザックも長い付き合いになりそうです。
明日は日曜日ですが仕事するので、15kmくらいの予定。
ブログを読んでくださるみなさん、今年もよろしくお願い致します。
今年はもう少し頻繁に更新します。
走ることとは関係ない話です。
読売新聞の記事の見出しに「羽生竜王、百冠か無冠か」とありました。
「通算100期なるか通算99期のままか」
「唯一もつタイトルを防衛するか、無冠になるか」
のふたつがゴッチャになっています。
通算100期も、27年ぶりの無冠というのも、大ニュースには違いありません。羽生善治ファンとしては、(挑戦者・広瀬章人八段に申し訳ないけど)今回は羽生に勝ってもらいたい。羽生にも、もう「あんな記録やこんな記録を達成してくれ」なんて無茶な期待を抱きません。だからお願い、今回だけは……。
羽生が通算タイトル100期に挑戦するのは3度目になります。一発で決めておけばよかったのにねえ……。でも実は、記録のかかった大勝負を負けたことが、羽生には多々あるのです。
七冠同時制覇の最初のチャンスは、1995年1月に始まった王将戦七番勝負でした。羽生六冠が谷川浩司王将に挑戦、ファンは前人未踏の七冠達成を見てみたかったはずです。シリーズ初戦と二局目の間に阪神淡路大震災が起きました。神戸在住の谷川は被災して、世間のムードも少し変化しました。谷川に対する応援も増えたのです。シリーズは最終局までもつれ、谷川がシリーズを制しました。私は「もう七冠は無理かなあ」と感じたモノです。だって次の1年間で、6つのタイトルを防衛し、残る王将戦の挑戦者にならなきゃいけないのです。ところが羽生はそれを成し遂げ、翌年ふたたび王将戦に挑戦、4連勝で七冠を制したのでした。
名人を5期獲得すれば得られる永世名人の称号も苦労しました。2004年に十八世名人の最初のチャンスが巡ってきます。ところが、04年も05年も、同世代のライバル森内俊之に敗れます。タイトルの獲得実績では羽生よりずっと少ない森内が先に永世名人になりました。羽生が十九世名人の資格を得るのは、08年。気を揉んだねえ、このころは。
残る永世称号は竜王だけになりました。
永世竜王の資格は連続5期か通算7期獲得。初のチャンスは2003年でしたが、森内の挑戦を受け防衛失敗。08年、竜王4連覇中の渡辺明と、通算6期の羽生が、初代永世竜王を賭けて戦いました。伝説の七番勝負。羽生が3連勝しましたが、渡辺の充実ぶりはスゴかった! 結局、羽生は将棋界初の3連勝4連敗という屈辱を味わいます。2010年にも渡辺に敗れました。以降は挑戦者にもなれず、「もうダメなのかなあ」と感じていましたが、やっと昨年チャンスが訪れ、永世竜王&永世七冠を達成したのでした。
……振り返ると、谷川浩司、森内俊之、藤井猛、渡辺明らが好敵手として羽生と鎬を削っていたことがいろいろ思い出されます。
昨年竜王位を獲得したとき羽生のタイトルは通算99期でした。100期は難しくなさそうでしたが……。
今年春、名人に挑戦して敗れ、保持していた棋聖を失冠し、現在の竜王戦で3度目の正直なるか、なのです。
ヤキモキ、ドキドキ。
この2日間ばかりは、将棋を知らないひとが羨ましい。
明日は夕方から仕事にならないかもしれません。
【追記】
ううう、羽生善治、無念。自然に見えた△2二玉が失着とは。
広瀬章人新竜王、おめでとうございます!