私は以前相撲ファンでした。輪湖時代から見始め、千代の富士全盛期や若貴ブームのときは、もっぱら広島出身・安芸乃島を応援していました。野見宿禰・当麻蹴速から始まる相撲の歴史も大好きで、本をたくさん読みました。
同時に、八百長関連の本や雑誌記事も大好きでした。テレビ中継見ながら「これも注射か?」と呟きながら楽しんでいたものです。好角家であることと八百長の話題を楽しむことは私のなかで矛盾していなかったのです。相撲は純粋なスポーツではなく芸道のひとつですからね。日本の互助会的八百長システムに関していえば、ある意味日本社会の縮図です。
2007年、日本相撲協会が八百長を報じた「週刊現代」を訴えました。あれだけ証拠を揃えて記事を書いているんだから藪蛇。むしろ八百長が明るみに出てしまうのでは……と注目していたら、協会が勝訴しました。それこそ八百長のような判決に驚きました。
興醒めした私は、以来、相撲ファンをやめました。中継も見ていません。
4年後、野球賭博問題で押収された携帯電話に残っていたメールから、大相撲の八百長が発覚します。ほらね。ただし協会は上記判決を盾に2007年以前は八百長がなかったと主張。判決後に、急に八百長が始まったらしい。
理事長として不祥事の収束を任されたのがガチンコ力士の放駒親方(元魁傑)でした。見事な人選ですが、放駒親方はその役目を負ったため健康を損なったとも聞きます。
★
ところで。スリッパの話題を耳にしました。
先日、トランプ大統領がスリッパで土俵に上がったことに対し「国技の伝統が破壊された」という人がいるのです。過去、政治家が土俵に上がるときもスリッパですし、行司や呼び出しは草履や足袋です。アマチュア相撲のレフェリーは上履きみたいなのを履いているはず。土俵が裸足限定なんてことはありません。
そもそも角界の伝統ってなんでしょうか。
「相撲は国技」と信じられていますが、そんな法律はありません。日本相撲協会は公益法人です。明治の終わりに作家・江見水蔭が相撲を「国技」と書き、それに想を得た人が相撲の競技場を「国技館」と命名しました。自称・国技なんですね。
「相撲は神事」は、まあ、そうでしょう。しかし、江戸時代には寺社でおこなわれた勧進相撲は興行の意味合いが強かった。多くの相撲団体があちこちで興行を打ち、昭和初期まで女相撲もありました。いまの日本相撲協会は、天覧相撲をおこなったり、自分たちを国家神道と結びつけることで、一種の神格化を図りました。神事を強調することは生き残り戦略だったといえます。
「相撲は伝統」と言います。古くからあるという点では伝統かもしれませんが、ずっと同じではありません。むかし「立ち合い」は文字通り、互いに立って競技を始めました。かつては丸ではなく四角い土俵が主流でした。制限時間はなかった。四本柱は、戦後取り払われ、吊り屋根になりました。まわしは黒と紺だけでした。
したがって、古今不変の伝統を見いだすほうが難しいんです。大相撲が国技で神事で伝統だ、とは相撲協会やメディアが創造した壮大なフィクションです。
★
角界が最後まで死守する「伝統」はおそらく女人禁制です。昨年4月、倒れた舞鶴市長を救うため土俵に上がった女性に対し、行司が土俵から下りるよう促したことが話題になりました。大相撲春巡業「富士山静岡場所」で、女の子が土俵に上げてもらえなかった、というニュースもありました。前述のとおり、かつては女相撲があったのにね。
日本相撲協会はなぜ女人禁制というのか?
相撲協会は「土俵は神聖なる場所であるため」と説明しているそうです。
意味がわかりますか?
私はどうせならトランプに「メラニア(夫人)と土俵に上がる」と言ってほしかった。絶対にノーと言わない安倍首相はそれを吞み、日本相撲協会に強要するかもしれません。協会が合意すればダブルスタンダードです。もし拒否するならば、合理的な説明しなければなりません。「土俵は神聖なる場所じゃわからん。どうして女は入れないのか」と詰め寄られれば、前近代的な例の理由を言わなければなりません。
「女は不浄だから」
ああ、伝統ってなんだろう。大相撲ってそんなにすごいのか?