狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

台風15号の被害

9月9日夜、台風15号が関東を駆け抜けていきました。

台風の進路に向かって右側(東側)の千葉県では強風により甚大な被害が出た模様。Twitter などでずっとチェックしています。12日夜、木更津の知り合いとは連絡が取れました。

鎌倉は比較的早く復旧したそうですが、千葉および東京島嶼部はいまだに何十万軒もが停電している模様。断水もあるとのこと。残暑のなか大変でしょう。

私はお笑い芸人とジャニーズが出る番組を観ないことにしているのでテレビはほとんど観ないんですけど、ニュースやワイドショーなどでは内閣改造とか小泉進次郎とか韓国の話ばかりだとか。なぜ千葉に行って取材しないのでしょうか。東電も千葉県知事も政府も対応が遅すぎます。

ボランティア募集もチェックしています。ムダに体力を蓄えているわけではないのだ。

『はじめての構造主義』

本日は5キロだけジョグと公園トレ(ボックスジャンプ、逆手懸垂、ランジウォークなどなど)。走る距離が半分くらいになったせいか、よく本を読んでいる気がします。ブログに来て下さるランナーのみなさんは辟易されているかもしれませんけど……。

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 橋爪大三郎『はじめての構造主義』(講談社現代新書)を読了。構造主義の手引きですが、レヴィ=ストロースの解説が中心です。1988年初版で、私が読んだのは2018年3月の56版。帯には20万部突破とあります。この手の本が売れ続けているの、なんか、うれしいね。

大学時代に読んだ数々の本を思い出しました。構造主義やポスト構造主義(橋爪氏も書くように両者の違いはよくわかりません)の著作と悪戦苦闘したものです。大学院に進んで文学研究をやろうかとも考えていたので理論武装する必要もありました。ソシュールは丸山圭三郎の本で勉強。熱心に読んだのはロラン・バルト、ミシェル・フーコー、蓮實重彦などです。書棚を見るとジュリア・クリステヴァ『テキストとしての小説』も並んでいます。懐かしい! 「これを理解できるか否かで、これからの学問についていけるかどうかがわかるだろう」と大学の先生に言われ、おそるおそる読んだのは浅田彰『構造と力』でした。

私の足りない頭では一知半解がいいところだと感じてましたが、意外とポイントは理解しているらしい。そして、今でも私が思考するうえでの礎になっているようです。
『はじめての構造主義』では、ソシュールの言語学をヤーコブソン経由で教わったレヴィ=ストロースが人類学に応用した過程を解説してくれています。なるほどね。

大学時代、人類学には興味がなかったので(講談社学術文庫版『悲しき南回帰線』の訳文がよくわからないこともあり)構造主義の基本図書と知りながらレヴィ=ストロースは読まずじまいでした。今年、狩猟採集民に興味が湧き、やっと中公クラシックス版(同じ本ですが、こちらの邦題は『悲しい熱帯』です)を読みました。

アマゾンの未開社会を観察しながらレヴィ=ストロースが西欧中心主義を相対化したように、私も狩猟採集民の本を読んで常識と信じていたことを問い直しています。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

  • 作者: レヴィ=ストロース,Claude L´evi‐Strauss,川田順造
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: 単行本
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悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

  • 作者: レヴィ=ストロース,Claude L´evi‐Strauss,川田順造
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/05/01
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『人類の自己家畜化と現代』感想。

人類の自己家畜化と現代

人類の自己家畜化と現代

 

尾本惠市編著『人類の自己家畜化と現代』読了。国際日本文化センターの学際的研究プロジェクトの一環のようです(最近、同じプロジェクトの本『教養としての将棋』を読みました)。2002年刊です。原発事故以降であれば、もっと痛烈な文明批判が書かれていたでしょう。

犬、猫、牛、豚など、家畜化された動物は自然界とは異なる人為的な変化をしてきました。顎が小さくなるなど、家畜と人間の共通点を指摘して人間も自己家畜化したと唱える学者がいたそうですが、完全には人間と家畜の特徴は合致せず、忘れられていたようです。

尾本氏は、「メタファーとしての自己家畜化」として再提起しました。

 われわれ "文明人" と呼ばれる人類は、野生の動物とは比較すべくもない、いわば家畜と同じ存在であるという見方もできます。人類学では人類の進化を言い表す表現として、"自己家畜化現象" という言葉を用いますが、とくにこれは、自然淘汰の圧力から大幅に自由化した今日のわれわれにあてはまることでしょう。家畜はひとたび自然に戻せば生きて行くことはできないことが多いのです。今日のヒトも、科学技術という小屋と人工飼料にて保護されていますが、これは地球全体で莫大なエネルギーを費やしているわけで、ひとたびその補給がつかなくなればおそるべき結末をもたらすでしょう。(略)

自己家畜化とは「自分たちがつくった文明のせいで野生に戻れなくなった状態」のことでしょう。人間は物質文明を発展させてきましたが、気がつくと、もう文明社会のなかでしか生きられない。そして、そこを生きるコストは高い。

私が狩猟採集民の話を読みながら考えていることは、生態系から飛び出して我が物顔をする現代人を再検証することです。われわれが「これが常識だ」と教わった価値観、飼い慣らされてきたシステムがじつは転倒するかもしれないのです。 
 
学際的研究らしく人類学者・歯学博士・理学博士……など十人が執筆、現代社会の弊害、小さくなりすぎた現代人の口に生じている疾患、ペットと人の関わり、クローンと倫理の問題などなど、話題は多岐にわたります。川田順造のブリコラージュについては前回書いたとおりです。

井口潔「ヒトにとって教育とは何か」が個人的には面白かった。

 日本では「教育とは役に立つ人間を効率よくつくることだ」と当然のこととして受け取られているが、この考え自体が誤りである。「人間らしい人間になるのを助けるのが教育の原点」でなければならない。人間らしい人間になったら、その結果として役に立つようになるのである。そしてこれだけが真理なのである。

この立場からすると、教育は二つに分かれる、と井口氏は書きます。

「生存のための教育」=生得性の能力(感性)と、「生産のための教育」=物をつくる能力(ホモ・ファーブル)です。明治以降の教育は後者すなわち「教育とは役に立つ人間を効率よくつくることだ」でした。

さらに自己家畜化により価値観が固定化する危機から脱する知恵は、「役に立つ人間を効率よくつくろう」という従来の考え方から脱却し、生得性の能力、つまり「感性にかえる」ということだと続きます。《感性とは「人間として生きていく力」であり、これが一〇〇万年昔に猿と分かれた人間の最大の智慧だ》。

ふむふむ。年齢としつけを解説したくだりもそうだけど、贔屓の引き倒しか、私は狩猟採集民の教育を取り戻せ、と言われているような気がするんですよね。

『風をつかまえた少年』に感じたブリコラージュ

映画『風をつかまえた少年』(2018年/イギリス・マラウイ合作→公式サイト)を観ました。

じつに素晴らしい作品でした〜。アフリカ・マラウイの実話に基づく物語です。旱魃のため飢饉に苦しむ村を14歳の少年が救います。

主人公カムクワンバ少年は、学費が払えず学校から追い出されましたが、学校の図書室にこっそり通ってエネルギーの本を読み、勉強します。そして、数々の困難に打ち克ち、成功するのです。感動的でした。いい家族、いい仲間たち。前にも書いたけど、勉強って自分を高めつつ、みんなと幸せになるためにするものなんだよね。

私は映画館に向かう電車内で、川田順造「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」(尾本惠市編著『人類の自己家畜化と現代』所収)を読んでいたんです。「ブリコラージュ」(Bricolage)という概念の解説と具体例が出てきました。レヴィ=ストロース『野生の思考』は未読ですが、彼が提唱したブリコラージュ自体はいろんな本に出てくるのでいちおう理解しているつもりです。「器用仕事」と訳されたりします。

西洋では設計図にもとづき部品をそろえ、モノを作ります。一方、伝統的な社会では端切れや廃材などありあわせのものを転用して違うものを作るのです。後者をプリコラージュと言います。

たとえるなら、こんな感じかな。

「今日はこの本のレシピ通りにご馳走作るぞ」とスーパーに行って材料やスパイスを揃えて意気込んで作るお父さんと、冷蔵庫の庫内を眺め「これとこれがあるので、あり合わせで作っちゃえ」とササッと料理するお母さん。プリコラージュ的調理法は後者であり、一般的に料理上手と言われるのもそちらではないでしょうか。

川田氏の論考には、西アフリカ大陸では火縄銃や燧石銃の銃身をつくる技術がなく、自動車の廃材からハンドルをささえるハンドル桿を利用した、とありました。また、同地域原産とされるヒョウタンが、盥、各種の容器、食器、柄杓、儀礼具、楽器の共鳴器、浣腸器など広汎に使われている例も挙げています。

『風をつかまえた少年』で、主人公の少年はゴミ捨て場を歩きまわり、廃材を集めます。そして見事なブリコラージュを見せるのです。その点でも感心しました。

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予告編より

映画では全編、風が吹いていました。エネルギー問題についても考えさせられます。地球がある限り、風は吹き、陽は昇ります。おそらく人間が滅びたあとも、風は吹き陽は昇るでしょう。雨も降る。波は寄せる。そういった半永久的なものを利用して暮らしに役立てることもじつはプリコラージュだと思いませんか。

桐生祥秀選手のトレーニングと、陸上部員。

短距離選手は何時間トレーニングをしているのかを知るだけでも充分見る価値がありますね。桐生祥秀選手、250m以上走るのは憂鬱という発言に笑いました。私は山縣亮太選手のファンですけど、参考にしているのは桐生選手の柔らかい動きです。

私はときどき少人数の短距離講習会に行くんです。大人も参加できるけど、中高生の陸上部のほうが多いかな。

そこで毎回感じます。

陸上部の短距離選手なのに、素人の私でさえフォームの欠点が目につきます。踵着地だったり足が流れていたり。でもですよ、基礎から教わり、ドリルをやったりするうち、彼ら彼女らは一本ずつフォームが改善されていくんです。一時間半くらいで確実に変貌しています。

今の学生はすごく恵まれているんです。数十年前、私が子どものころには短距離のフォームの情報なんてなかったのに、今はスポーツバイオメカニクスが発達しているし、動画や雑誌や書籍でいくらでも知ることができます。走り方教室みたいなものも各地にあるはずです。

顧問の学校の先生が忙しくて知識不足であることは理解しています。陸上部の部員で情報を持ち寄り主体的にメニューを決める、というのが最善ですが、まあ望めまい。しうであるなら各競技のコーチを地域の教育委員会がで派遣して学校を持ち回りで指導するとか、土曜日に数校の陸上部が揃って練習するとかすればいいのに、とおじさんは感じるのです。

『循環と共存の森から』感想。

循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵

循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵

 

いよいよアフリカの狩猟採集民族の話です。

船尾修『循環と共存の森から 狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵』(新評論)読了。メインタイトル見たらとっつきにくそうですけど、そんなことありません。コンゴ共和国の森に住み、みずからをムブティと呼ぶピグミーの集落で何度もフィールド・ワークしたフォト・ジャーナリストのエッセイです。写真も数多く掲載されています。

狩猟採集生活を見たかった著者が最初に出会ったのは、イタリア人神父によって労働や民主主義や宗教を「教えられている」ムブティたちでした。人間本来の生活をしていた人たちよりも西洋のほうが進んでいると考え、未開の地の人びとを教化するってどうなんかね? と著者は(私も)考えてしまいます。

さらに奥地におもむき、十数軒の集落を見つけます。移動型の狩猟採集生活をしているムブティたちでした。著者は彼らと寝起きをともにします。農耕民と交易もしていますが、農耕以前の暮らしぶりがうかがえます。

彼らは網に獣を追い込む狩猟をします。決して乱獲しませんし、同じ場所に居続けると食料が尽きるので、ときどき集落ごと移動します。木と葉っぱでつくった簡単な家で寝泊まりするのです。みんなで食事をとり、歌い、踊る人びとでした。

居候である著者にも、もちろん獲物は均等に分配されます。ワニに襲われ障碍を負った少年もみんなと同じように狩りに参加してできることをやり、平等に食事を分配されていました。彼はコンボづくりの名手でした。

平等主義。平和主義。男女共同参画。自然との共生。

近代化した自分たちの生活を著者は考え直します。(太字=引用者)

 モノを所有すれば所有するほど、それで満足することなくさらにモノが欲しくなる。その傾向は、農耕による定住化、そして結果としての(目的としての)富の蓄積・集中という「発展」の段階をたどると、当然の帰結なのかもしれない。富の蓄積が膨らんでいくほど文明は進んだといわれるが、しかし裏を返せばそれは単にその社会がものであふれかえっただけのことであって、人間の中身が進歩したことを意味するのではない。
 狩猟採集民と農耕民との間には、単なる生業のちがいを超えたとてつもなく大きな溝が横たわっているのではないかとわたしが感じるのは、つまりそのようなことなのである。ただ注意していただきたいのは、現代に生きる狩猟採集民もまた心の中では農耕民と同じような富を欲している部分があるということだ。だから、どちらがより精神性として優れているか劣っているかということをわたしは述べているわけではない。

とくに最後の部分、重要だと思われます。彼らの性格や暮らしぶりは人間の本質ではなく生活のための戦略かもしれません。でも、人間は本来数百万年もこういった生活をしてきて、定住して農耕生活を始めたのはたった1万年前のことなのです。富が生まれ、貧富の差が生じ、生態系の外に飛び出し、地球を汚しているくせに「地球にやさしく」なんて言う。

ムブティの住む森の樹がタイの業者によって伐採されるかもしれないという噂が伝わってきました。もちろんそんなことはさせたくないが、日本の安い家具だって東南アジアの森を伐採してつくられ、それは原始社会から森を奪っているのだと読み、ハッとしました。この本は、私のうちの、そういう木でつくられた書棚に並ぶのかもしれません。

政情不安のコンゴ共和国で彼らが著者と再会する冒頭とラストのシーン、感動的でした。

本書にはピグミーたちの神話、死生観、婚姻システムや性に対する考えがほとんど書かれていません。そういったことは推薦文を書いている市川光雄やコリン・ターンブルの本で補います。

進歩した世界に住んでいる気になっている私たち。ところが、狩猟採集民について読むと、天地がさかさまになったような衝撃を受けるのです。子どものころはインディアンは移民を襲撃するものだと思っていたもの、そりゃ、天地もひっくり返ります。そしてもう読むこともないと考えていた哲学や経済学の本などにも興味が派生していく。まいったね。楽しいんだけど。

もう隷従はしないと決意せよ。『自発的隷従論』感想。

私は見てないけど、テレビは韓国の話題ばかりらしい。いくらむいても疑惑が出てくる「たまねぎ男」という韓国高官の報道に時間を割いているようですが、それを言うなら日本の現政権は「たまねぎ政権」ではありませんか。メディアはどうして採りあげないのか。視聴者はどうして不思議に思わないのか? あれ、もしかして……奴隷?

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

 

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)を読みました。

1530年に生まれ、33歳で死去したラ・ボエシのの論考は、16歳もしくは18歳までに書かれ、友人であったモンテーニュが保管していたとのことです。修辞をちりばめた散文詩のおもむきすらあります。250ページの本ですが、大半が脚注や解説や付録で、彼の論考自体は70ページです。

「自由」は人間に本来備わっている権利であると見るラ・ボエシは、なぜ自由を放棄して悪政に隷従するのかと問います。選挙で選ばれた者、戦争で支配する者、世襲で王となった者。いずれも圧政者となり、市民は自発的に隷従する。それが国家の普遍的な状態であるのはなぜか。支配しているのはたった一人。支配されているのは何十万人、いやそれ以上。

 あなたがたは、わざわざそれ(註=隷従)から逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。

被支配者が「自由を返せ」と宣言するだけで軛がはずれ、支えを失った圧政者は《土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落》すると言います。それなのに、生まれつき隷従が習慣になっている人びとはそんな宣言をしないのです。

圧政者の下にわずか四、五人のとりまきがへつらい、とりまきの下に隷従者を作り、トップの顔色をうかがいながら忖度し、圧政者の地位を守る。とりまきをラ・ボエシはこう評します。《はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると呼べるだろうか。この世に、これ以上に耐えがたいことがあるだろうか》。

圧政者ととりまきと、隷従する国民。現代日本もそんな感じです。

隷従する人の心理や、状況を打開する具体的方策までは言及されません。革命の書とみなされたこともあったそうですが、解題(訳者・山上浩嗣)によると、その意図はなかったとのこと。

では、彼の考える理想的で自由な世界とはどんなものか。《神のしもべで人間の支配者たる自然》は、われわれ全員が《兄弟と認識しあえるように》人間を同じような姿につくった。知力や体力はさまざまだが、それは《ある者には大きな分け前を、ある者には小さな分け前を与えることによって、自然は兄弟愛を生じさせようとしたのだ。そして、ある者が人を助ける力をもち、ある者がそれを受け取る必要がある状況で、兄弟愛が行使されることを望んだのである。

ん? まるっきり狩猟採集社会ではありませんか。付録として巻末に載っている論考で、人類学者ピエール・クラストルは、ラ・ボエシは原始社会の情報を得て、本稿の構想を得たのではないか、と仮説を立てています。解題では「疑問の余地がある」と書かれていますけど、そう考えたくなるくらい、ラ・ボエシの書く「自由」は、狩猟採集生活によく似ているのです。

たとえば、最近読んだ奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』に出てくる、ボルネオ島のプナンの人たち。狩猟採集生活の思考を残す彼らには、平等な分配と寛大な贈与が徹底しているそうです。奥野氏の観察によれば所有欲は本能ですが、それを幼い頃から削ぎ落とすらしい。それが原始社会の生きる術ということかもしれません。

《プナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬され》る。自ら率先して分け与え、誰よりもみすぼらしい人物が「ビッグ・マン」と呼ばれる共同体の一時的なリーダーとなる。

では、ビッグ・マンが所有欲を抑えきれず、個人の財をなしはじめたら(つまり国家の圧政者に似てきたら)どうなるか。《人々はしだいに彼の者を去っていく。そのとき、ビッグ・マンはもはやビッグ・マンではなくなっている。プナンは、ものを惜しみなく分け与えてくれる男性のもとへと集うのである》。人々は去り、ビッグ・マンは《土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落》してしまうのです。

もしかすると、所有欲や闘争本能や階層を作ることこそ人間の本質であり、狩猟採集生活の平等主義は個人を抑圧しているのではないか?……という意見があるでしょうか。それにはこう反論できるでしょう。「では、現代社会に多い鬱病や自殺が、狩猟採集民には見られない理由はなぜか」

ルソーは18世紀後半、狩猟採集民のレポートを読んで『人間不平等起源論』を書いたのですが、十代の青年(少年?)が15世紀半ばに「支配者 - 被支配者」という自明とも思える観念から飛躍し、自由こそが人間の自然な状態だ、と発見したことは驚きです。

「450年前なのにこんなこと考えていたなんて、やるじゃん」と偉そうに言うのではありません。時代が進むにつれてみんな賢くなっていると思ったら大間違い。われわれが思いつく思想なんて、たいてい誰かが考えているのですから。