狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

もう隷従はしないと決意せよ。『自発的隷従論』感想。

私は見てないけど、テレビは韓国の話題ばかりらしい。いくらむいても疑惑が出てくる「たまねぎ男」という韓国高官の報道に時間を割いているようですが、それを言うなら日本の現政権は「たまねぎ政権」ではありませんか。メディアはどうして採りあげないのか。視聴者はどうして不思議に思わないのか? あれ、もしかして……奴隷?

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

 

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)を読みました。

1530年に生まれ、33歳で死去したラ・ボエシのの論考は、16歳もしくは18歳までに書かれ、友人であったモンテーニュが保管していたとのことです。修辞をちりばめた散文詩のおもむきすらあります。250ページの本ですが、大半が脚注や解説や付録で、彼の論考自体は70ページです。

「自由」は人間に本来備わっている権利であると見るラ・ボエシは、なぜ自由を放棄して悪政に隷従するのかと問います。選挙で選ばれた者、戦争で支配する者、世襲で王となった者。いずれも圧政者となり、市民は自発的に隷従する。それが国家の普遍的な状態であるのはなぜか。支配しているのはたった一人。支配されているのは何十万人、いやそれ以上。

 あなたがたは、わざわざそれ(註=隷従)から逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。

被支配者が「自由を返せ」と宣言するだけで軛がはずれ、支えを失った圧政者は《土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落》すると言います。それなのに、生まれつき隷従が習慣になっている人びとはそんな宣言をしないのです。

圧政者の下にわずか四、五人のとりまきがへつらい、とりまきの下に隷従者を作り、トップの顔色をうかがいながら忖度し、圧政者の地位を守る。とりまきをラ・ボエシはこう評します。《はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると呼べるだろうか。この世に、これ以上に耐えがたいことがあるだろうか》。

圧政者ととりまきと、隷従する国民。現代日本もそんな感じです。

隷従する人の心理や、状況を打開する具体的方策までは言及されません。革命の書とみなされたこともあったそうですが、解題(訳者・山上浩嗣)によると、その意図はなかったとのこと。

では、彼の考える理想的で自由な世界とはどんなものか。《神のしもべで人間の支配者たる自然》は、われわれ全員が《兄弟と認識しあえるように》人間を同じような姿につくった。知力や体力はさまざまだが、それは《ある者には大きな分け前を、ある者には小さな分け前を与えることによって、自然は兄弟愛を生じさせようとしたのだ。そして、ある者が人を助ける力をもち、ある者がそれを受け取る必要がある状況で、兄弟愛が行使されることを望んだのである。

ん? まるっきり狩猟採集社会ではありませんか。付録として巻末に載っている論考で、人類学者ピエール・クラストルは、ラ・ボエシは原始社会の情報を得て、本稿の構想を得たのではないか、と仮説を立てています。解題では「疑問の余地がある」と書かれていますけど、そう考えたくなるくらい、ラ・ボエシの書く「自由」は、狩猟採集生活によく似ているのです。

たとえば、最近読んだ奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』に出てくる、ボルネオ島のプナンの人たち。狩猟採集生活の思考を残す彼らには、平等な分配と寛大な贈与が徹底しているそうです。奥野氏の観察によれば所有欲は本能ですが、それを幼い頃から削ぎ落とすらしい。それが原始社会の生きる術ということかもしれません。

《プナン社会では、与えられたものを寛大な心ですぐさま他人に分け与えることを最も頻繁に実践する人物が、最も尊敬され》る。自ら率先して分け与え、誰よりもみすぼらしい人物が「ビッグ・マン」と呼ばれる共同体の一時的なリーダーとなる。

では、ビッグ・マンが所有欲を抑えきれず、個人の財をなしはじめたら(つまり国家の圧政者に似てきたら)どうなるか。《人々はしだいに彼の者を去っていく。そのとき、ビッグ・マンはもはやビッグ・マンではなくなっている。プナンは、ものを惜しみなく分け与えてくれる男性のもとへと集うのである》。人々は去り、ビッグ・マンは《土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落》してしまうのです。

もしかすると、所有欲や闘争本能や階層を作ることこそ人間の本質であり、狩猟採集生活の平等主義は個人を抑圧しているのではないか?……という意見があるでしょうか。それにはこう反論できるでしょう。「では、現代社会に多い鬱病や自殺が、狩猟採集民には見られない理由はなぜか」

ルソーは18世紀後半、狩猟採集民のレポートを読んで『人間不平等起源論』を書いたのですが、十代の青年(少年?)が15世紀半ばに「支配者 - 被支配者」という自明とも思える観念から飛躍し、自由こそが人間の自然な状態だ、と発見したことは驚きです。

「450年前なのにこんなこと考えていたなんて、やるじゃん」と偉そうに言うのではありません。時代が進むにつれてみんな賢くなっていると思ったら大間違い。われわれが思いつく思想なんて、たいてい誰かが考えているのですから。