狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

MGCまであと2週間

MGCまであと2週間ですか。

7月に、IAAFはMGCの2位までをオリンピック代表として認めることにしたようですね。つまり、参加標準記録やランキングに関係なく、2位までは一発勝負で決まるというわけです(→MGC上位5人に東京五輪参加資格 上位2人が代表 - 陸上 : 日刊スポーツ)。

昨夜放映の『勝利の条件 スポーツイノベーション「東京オリンピックで勝つ!女子マラソン」』という番組を見ました。2週間後のMGCの展望でした。女子は福士加代子選手が飛び出し、ほかの選手が少し遅れて集団になる気がします。順位だけが問題だから遅いペースになりそうです。

松田瑞生選手や鈴木亜由子選手に頑張ってもらいたいと思うも、真夏という苛酷な条件でのフルマラソンに(そもそも東京オリンピック開催に)反対している私は、過去最悪な夏レースを走ってほしくないという気持ちも大きい。

番組では、東京オリンピックのマラソンは、五輪史上、過去いちばん暑いかもしれないという話が一瞬でましたけど、それでおしまい。「ラストの坂道が勝負です」とすぐに話題が逸れました。「東京の夏の暑さを知っている日本選手が有利ですよ。メダルも夢じゃありません」なんてセリフがでなかったぶん、まだマシでしょうか。

世界から最高のスピード選手を集めて劣悪な条件で競わせるなんて……。できれば世界最高記録が出るような気象条件でレースをしてほしいのですよ。オリンピックって我慢比べじゃないよね。

『服従の心理』

 50年前に行われたS・ミルグラムの実験です。

イェール大学による教育プログラムのデータ収集のためと言い、一般の人を公募します。集まった人には報酬と交通費が支給され、実験は大学で行われました。

被験者には、電気ショックの罰を与えることで記憶力がアップするか否かを検証する科学的実験だと説明されました。

2人組を作ってくじ引きをし、テストを出す先生役と、回答する生徒役に分かれます。2人は隣り合わせた別の部屋に座ります。先生役が座る部屋には権威ある大学の教授が同席。隣室の生徒役は椅子に拘束され電極をつけられています。

先生役の前には、30個のスイッチがついた箱が置かれています。生徒役が誤答した場合、先生役はスイッチを押し、生徒役に電撃を与えます。最初は15ボルト。間違えるたび衝撃を15ボルトずつ上げていき、ラスト30回目の電流は450ボルトになります(あらかじめ、先生役も45ボルトの衝撃を体験しました)。

75ボルトくらいから、となりの生徒役がうめく声が聞こえます。120ボルトで「電撃が苦痛だ。出してくれ」の叫びになります。150ボルトで「実験の先生、出してくれ!もうこの実験には協力しないぞ!」。徐々に叫びは強くなり、180ボルトでは「痛くて死にそうだ」、270ボルトで苦悶の絶叫となる。300ボルトに上がったところで、「もう記憶テストに参加しないぞ」という絶望的な叫びが上がりました。

隣室の反応を聞いた先生役は、苦しそうな声を耳にし、何度も同室の大学の教授に「ああ言っていますが……」とお伺いを立てます。教授は「電撃は苦痛でありますが永続的な肉体への損傷はありません。続けてください」「続けなければ科学的実験が成り立ちません」などと促します。

回答者は315ボルトで激しく絶叫して壁を激しく叩き、もうやめると断言。330ボルト以降いっさい反応がなくなりました。教授は無回答を誤答とみなし、先生役に向かってさらなる電撃を与えよと命じる。そしてまた出題、無回答、電撃……。
 
この実験では、40人が先生役となりました。他傷行為の精神的苦痛に耐えられず、中断した人もいます。教授の要求に従って、最後の450ボルトまで電撃を加えた人は何人いたでしょうか? また、あなたが先生役だとしたら、果たして、450ボルトまで電撃を続けられますか?

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

 

最大450ボルトまで続けた人は、40人中26人でした

これは罰と記憶力の関係を調べるためではなく、普通の人が命令によって他人を傷つけられるか、という実験でした。生徒役は役者で、電気ショックを受けたふりをしていたのです。

この実験により、権威者の指示で、普通の人が簡単に冷酷なことをしてしまうことが明らかになりました。すなわち、ホロコーストの虐殺は、ごくふつうの人が起こしうることを証明したのです。ミルグラムはユダヤ人でした。

実験と服従の心理状態をつぶさに書いたS・ミルグラム『服従の心理 』によれば、人間がモラルや感情を飛び越えて、そんなことができてしまう理由を、エージェント状態という言葉で説明しています。

 エージェント状態に入った人物は、それまでとは別人になり、いつもの人格とはすぐに結びつかない新しい性格を帯びるようになる。
 まず、被験者(註=先生役)が実施する活動は丸ごとすべて、実験者との関係に影響されるようになる。被験者は通常、実験者(註=同室の教授)という中心人物の前で有能に行動し、いい印象を与えたいと願う。そして、有能ぶりを示すのに必要な、状況の特徴に意識を集中させる。命令に耳を傾け、電撃を加えるという技術的な要件に集中し、目の前の狭い技術的な作業に没頭してします。学習者(註=生徒役)の処罰は、体験全体の中でどうでもいい部分に縮んでしまい、実験室の複雑な活動の中でただのお飾りと化してしまう。

ある時点で、ひとは命令系統に組み込まれ、単に命令を真面目に遂行する存在に変貌してしまうというのです。

人間に服従本能があるというのではなく、シチュエーションによって発現するといい、上の命令に従うヒエラルキー(階層)は、集団が生き残るために有利であったとミルグラムは書いています。

私は威張ったり威張られたり、理不尽な命令を遂行することが嫌いです。それでも会社や学校で、不条理な経験をして、ときには抵抗しました。親はわりとうるさくなく、中学から大学もさいわい自由な校風でした。十数年務めた会社でもあんまり理不尽を感じなかった。上の人からは生意気だと言われましたけど、一方で、後輩に威張ったりはしなかったと思います。

権威者に命じられて悪いことを実行する者の心理は「自分は命令に従う忠誠心が正しい。悪事に対する責任は自分にはない」と考えるらしい。

日本の場合、必ずしも権威者が責任をとるとは限りません。「詰め腹を切る」というやつです。公文書改竄という大罪で自殺された方はたしかに実行はしたのでしょう。しかし命令したやつは責任を取ったのか?

生きづらい階層社会にあって、私が初期狩猟採集的の平等的社会に憧れるのは当然です。階層の一部で歯車になるのは心的な緊張がともないます。狩猟採集社会や他の社会を観察しながら、すこしはマシな社会変えていきたいと願うのです。たとえば、ミルグラムは親のしつけと学校が服従の事前要件になる、と書いています。フーコーは学校を近代が発明した監獄だと書きました。しかし、アメリカや日本と、北欧のしつけと学校は明らかに違います。さらにいえば、アマゾンのピダハンみたいに子どもに絶対手を出さない狩猟採集社会があり、学校に行けと言われても行かない集団もあるのです。だからといって彼らが不良になるわけではありません。

この本、訳者・山形浩生が、実験からミルグラムが導いた服従心理の解説に疑義を呈しているのが面白い。私が読みながら不思議だと感じたことも書いてあります。

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

 

狩猟採集生活を知ると、私たちが常識と思いこんでいることが絶対ではないことがわかります。彼らは未開社会だから未熟で、現代社会のほうが進んでいる? いやいや、彼らにはたとえば鬱病がないのに、現代人は鬱になり自殺するではないですか。9月1日(今年は2日か)は、十代の自殺がもっも多い日です。学校とはなんだ。フーコーは学校を権力者による監獄だと考えた。イヤなら行かなくてもいいのではないか? 行かなかったら社会に受け容れられない? 生涯賃金が低い? 長時間働いても、ギリギリの生活になってしまう? どんな世の中なんだ、一体。

狩猟採集民は、私たちの社会を相対化してくれるのです。

奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読みました。タイトルからして軽い読み物かと思いましたが、哲学エッセイの趣きです。

ボルネオ島にすむプナンという人々の話です。彼らは1980年代までノマド(遊動)的な狩猟採集生活をしていましたが、いまは焼畑農業もしていて半定住型の暮らしです。彼らは文明の利器をしっており、マレーシア政府から学校に入ることをすすめられたりしていますが(多くの子は行かない)、いまだ狩猟採集民ならではの思考パターンをもっているらしい。著者は断続的ですが長期にわたって彼らと暮らし、われわれとは異なる彼らの生活や思考パターンの根源を形而上学的に考察します。

プナンの人々には「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」「さようなら」などの交感言語がないと言います。いままで読んだ多くの狩猟採集民に、それらの言葉がない、もしくは少ない人々がどれだけいたことか。われわれは「きちんと挨拶しなさい」「ほら、きちんとお礼をいいなさい」と躾けられてきたのに……。

彼らはものを独占しません。獲物は均等に分けられます。

子どものころから、お菓子かなにかを手にした子どもは「みんなと分けなさい」と言われるそうです。所有欲は本能らしいけど、それを徹底的に削ぎ落とし、分配を教育されるのです。集団で生きるうえでの戦略なのかもしれません。いちばん尊敬を集めるのは、所有物をすべて与えて、なにも持たない人だそうです。

さらにプナンでは、モノ以外のことも共有されているらしい、と著者は言います。たとえば、かれらは「感情」を共有しているらしい。誰か1人が悲しいときはみんなが悲しい。殺す動物の感情も共有しているように思われる。動物は神話になる。

プナンの場合、知識や能力も、日本人と違って個人に属さない。プナン社会では、狩猟や漁労に関する知識や能力は集団で共有される。一方、日本では知識やスキルは個人のものであり、努力によって獲得したそれらで報酬を得る。競争でふるい落とされた人たちは心を病むこともある。

プナンには個々人の向上心や努力はないが、格差もない。

1億年の歴史を持つ熱帯雨林に、つい最近(4万2千年前)入り込んだ人間。彼らと獲物と鳥の関係や、カミの話題なども興味深い。

全体的に、著者はニーチェの考えを援用しながら現代社会にカウンターを与えます。過去にわりと読んだつもりのニーチェも、あらためて読み直さなければ。まいっちゃったな、課題図書がどんどん増えていく。

世界がもし100人の村だったら

同じタイトルの本とは関係ありません。

リンクのサイトから山極壽一発言を引用。(*太字は引用者)(→第2回 山極壽一(霊長類学):サル、ゴリラ研究から現代社会を考える(提言編) | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 脳はなぜ大きくなったのかという最大の疑問に仮説を出した人がいます。人間以外の霊長類の脳といろいろなパラメーターを比べてみたら、一番ぴったりくるのは集団サイズだということがわかりました。サルとかチンパンジーとか、それぞれの種に平均的な集団サイズがあるのですが、それが脳の大きさ、とりわけ脳に占める大脳皮質の割合にきれいな相関を示していました。

 では、1500ccの脳を持っているわれわれ現代人にはどれぐらいの集団サイズが適しているかというと、150人です。これは農業や牧畜をやっていない、狩猟採集で暮らしている人たちの平均的な村のサイズに相当していて、「マジックナンバー」と言われています

世界がもし100人の村だったら、村人はみんな顔見知りです。

互いのことを知っているから思いやりが生まれます。誰かが病気や失敗をしたら救いの手をさしのべるでしょう。自業自得で貧乏におちいっても、そいつが普段は陽気なやつで、歌を歌わせたら世界一だなんてことも知ってもいるので、「しょうがねえな」と助けてやる。自己責任だ、とせせら笑うことはない。誰かが子どもを産んだら、みなで協力して育てる。誰かが獲物をとったら、みんなで平等に分ける。「ありがとう」なんて言われない。なぜなら、次に別の誰かが獲ったら、あたりまえのように分けてくれるから。そんな狩猟採集民はいまも存在します。

 

ところが、世界は数十億人が住んでいます。日本だけでも一億人以上が暮らし、全員が顔見知りではありえません。われわれは誰が作り、誰が加工し、誰が運んだかわからないものを店で買います。そして自分が買った商品やサービスが時給900円の人たちによるものか、なんて想像しないのです。

ざっと半径5メートルを見渡したところ、ブラック企業に勤めている人も低所得者もシングルマザーも差別されている人も外国人労働者もいないよ、という人はあるでしょう。でも、その人が食べている安い弁当は、低賃金で働く人たちによって作られているのかもしれないのです。半径5メートルの外にいる、いくら働いても生活が上向きにならない人のもらうべき賃金やサーヴィスを、われわれは知らず知らず搾取しているのかもしれません。

国民が互いの顔を知らない社会では、社会福祉や再配分は行政の仕事です。ところが、資本主義国家は新自由主義の名のもと、暴走しはじめました。富裕層が手に手をとって自分たちが儲かるシステムをつくり、格差を拡大させ、下層の人たち(外国人含む)はギリギリまで搾取されます。そして、格差は遺伝する。

 

狩猟採集生活の幸福と違い、近代国家の幸福は他人の不幸のうえに成り立つ。

後者の社会がいいとは私は思わない。さてと。どうしたもんかな。

北海道マラソンでファンラン……ひとまずフルはお休み。

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大会翌日の大通り公園

北海道マラソン、走ってきました。

ひとまず、フルマラソンはお休みです。走りたくなったらまた走るということにします。

前の晩、ファンランのつもりだったので、フル前日に初めてお酒を飲んだんです。緊張で眠れないことが多いのに、今回はアルコールの力でぐっすり眠れましたから、フル前日の飲酒は良いのか悪いのか……。

道マラといえば暑さが怖いんですけど、珍しく今回は涼しかった!  日が差してないと肌寒いくらいの好コンディションでした。

ダメージを残さない程度に走るには、どのくらいのタイムが妥当なのか、考えました。短距離ランナー転向宣言をしたあと月150〜200kmのジョギングしかしていませんし、フルマラソンを走る体重の上限設定を1kgはオーバーしている状態。過去の走りこみの蓄積を勘案してサブ4あたりが妥当でしょう。条件がいいので、3時間45〜50分もいけるかもしれません。……ジー、ガシャガシャと、旧式コンピュータで計算し、7〜8割の力でサブ4をすると決めました。もしも暑かったら制限時間5時間をたっぷり使って走ったかもしれません。

トイレは20分くらい並んだかな。8時40分までにスタートに並ばないと最後尾からのスタートだとアナウンスされていました。

9時スタート。うん、曇っていて涼しい。前半は降ったりやんだりで、やや強めの雨に打たれる時間帯もありました。5:30/kmくらいで淡々と走りたかったんですけど、流れにのって5:00/kmペースになってしまいます。我慢して5:10/kmペースに抑えました。

調子は悪くないので前半で距離を稼ぎ、後半のんびり走るプランにしました。よい子は真似しないでね、みたいな走り方です。10km 過ぎたあたりは向い風だったこともあり、5:20/km ペースまで落としました。2時間ジャストで23kmを越え、「あとはキロ6でサブ4じゃないか」と一安心。段階的にペースを落とすよう努めます。飲み会に余力を残さねばならぬ。

19キロくらいから26キロくらいまでは延々直線が続く新川通り。強めの向かい風です。何度も道マラを走った友人から「あそこが苦しい」と聞いて心の準備ができていたおかげで淡々と乗り切れました。強い風に耐えた新潟シティマラソンを思い出します。あのとき、3時間10分を切ったんだよなあ……。

新川通りを折り返すと晴れました。気温は20度くらいでしょうけど、日差しが強くて暑い。さいわい追い風です。給水ポイントで水を背中にかけると、風が背筋を冷やしてくれました。以上、おばあちゃんの知恵袋。

急ぐ旅じゃねえ。

レース前から攣りそうだった足がやばくなってきたので、給水で止まって屈伸したりしながら、ペースをぐっと落としました。こんな展開ならスマホ持って撮影ながら進めばよかった。……あれ、ちょっとフラつきました。まさか熱中症?

北海道大学を眺めながら進み、大通り公園にぶつかって右折。どこがゴールかしばらくわかりません。あ、あれか、とフィニッシュ。

3時間48分27秒(ネットは47分台)でした。予定通り。

前半雨に濡れたのに後半暑くなり、シューズ内の温度が高くなったんでしょう。マメができていました。右足に出来ていた黒爪が前半に剥がれていた自覚はありました。
(山中伸弥教授も走り、3時間36分台だったとのこと。「山中教授に勝った/負けた」という声が聞こえてきますが、目標にされて、なんだか気の毒です。)

夜は仲間と飲み会でした。ガブガブ飲んでホテルで熟睡……。

翌日は札幌の古本屋をたくさん回りました。アイヌの歴史に関する本を何冊も購入。美術館や中島公園の文学館などが月曜日休みだったのは残念。四六判を何冊も持ち、1万5千歩ぶらついたあと、大通公園でビールを一杯飲みました。

大通公園ではヘルメット姿の若いバイトがマラソン大会のテントなどの撤去作業をしています。大会はこういう人たちに支えられているんだな、と思うと感動したというか……なんだか頭が下がる思いでした。

学習能力のなさ。

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8月16日の話です。

メレルの安売りシューズを買ったので、試し履きの散歩。ゼロドロップで、そこそこクッションあるシューズが欲しかったので、ちょうどいいかもと思って。サイズもちょうどいい。

私はアルトラの Vanish-R が好きだったんですけど、モデルチェンジ(踵のホールド)が変わった気がして、サイズ感がわからなくなりました。0.5cm大きいのを履いて走っても親指が黒爪になっちゃったという……うう。

メレルもゼロドロップだよな〜と、シューズに足を入れたところ、なんと、いい感触。アッパーの感じもアルトラ Vanish-R にそっくりです。しかも安売り!

うれしくなって散歩しました。同じ色の夕暮れもいい感じじゃん。

 

……が、結果、失敗。

 

例の、土踏まず問題を忘れていました。

扁平足と間違われるくらい足の筋肉が盛り上がっているので、土踏まず部分が盛り上がったシューズを履くと、そこだけ擦れて痛むんです。歩いているだけで違和感ありあり。ナイキもホカも同様の理由でダメでした。まったく、何度同じ失敗するのやら。

でもね。

アーチって着地した瞬間潰れて、跳ね上がる瞬間、再生する天然のバネですよね。土踏まずの部分を高くすると、アーチが潰れるのを邪魔するんじゃないでしょうか?

自己責任小咄

毎度ばかばかしいお噺を一席。

ここんとこ、なにごとも自己責任だそうで。病気になったら自己責任、貧乏したら自己責任、雨に濡れたら自己責任。空があんなに青いのも電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもみんな私が悪いのよ。柳亭痴楽はいい男。

せちがらい世の中でございます。

何十年もせっせと納めてきた年金なのに、支給額は減る一方だとか。定年までに2,000万円貯蓄せよなどと言った政治家がありました。老後資金も自己責任なんですな。

「さて、俺もそろそろ死にそうだ。女房にも先立たれ子どももねえから、手持ちの金を使い果たそうか」と、お姉ちゃんのいる店でパーッと散財したところ──おねえちゃんから若さを吸い取ってしまったのか──あれ、なかなか死なないぞ」なんてね。「死なないな、困ったな」で、破産して。

そういうのもいわゆる自己責任なんでしょうな。何歳まで生きるか知っていて逆算できる人がいるんでしょうか? 老後資金貯めさせて、そのうえ年金支給年齢を高くして、定年後も働けなんて話もあるようでして……。いったい私は何歳まで生きて、何歳まで働くの?

「お〜い八っつぁん、見てくれ、42.195キロ完走したぞ〜!」
「熊さん、気の毒だが、今年からフルマラソンは5キロ延びたってよ」
「えっ? ここから5キロは心の臓に悪かろう。もう息が続かねえや」
「お上の決めたこと。ここが我慢のしどころだ、あと5キロ精を出しな」
「ぜえぜえ、47.195キロだ。これで仕舞えだ、べらぼうめ」
「おい、ついさっき、マラソンはさらに5キロ延びると決まったぞ。走れ」
「なんだ」とガラガラ声に八っつぁんが顔をあげますってえと、驚いたのなんの。「あっ、おまえ麻生太郞じゃねえか! ひょっとこ野郎、我慢ならねえ、リタイアしてやる」
「リタイアは勝手だが、自力で帰れ。収容バスはない。自己責任だ」

おあとがよろしいようで。