一番速く走れるシチュエーション

 ひさしぶりに広島に帰郷してボランティアをしている友人が、街を歩いて「あの店がない、この店もなくなった」と Facebook にアップしているのです。
 広島市の本通りにたくさんあった書店のうち何軒かはなくなりました。
 中央公論新社の草創期などを書いた牧野武夫『雲か山か』にも出てきた金正堂は懐かしいけど、もうありません。
 100年以上続く積善館は今では教科書を卸しているらしいんですが、店舗はなくなりました。学校から路面電車を降り、積善館を覗いてサンモールのゲームセンターに行くのが昔の中高生の歩行ルートのひとつだったなあ、とぼんやり考えていると、あることが思い出されました。
 
 私は市内の中高一貫校に通ったんです。
 中学生のとき積善館を出て平和公園方面に歩きだすと、後方からバタバタと足音が聞こえます。振り返ると、中学生男子が積善館の角を全速力で曲がるところでした。彼は必死の形相で私のそばをすり抜け、去って行きます。と、つづいてリーゼントの昔風のヤンキー高校生が積善館の角から現れ、彼を猛然と追いかけていくのでした。追われていたのは、名前は知らないけど同級生です。インネンつけられたかカツアゲされて逃げていたのでしょう。彼の無事を祈るべきでしょうが、私はこう感じたのでした。

「あいつ、足が速いのう」

 高校3年のとき初めてその同級生と同じクラスになりました。Nという名前でした。
 私、いまでも持久走は大の苦手ですが、おそらく速筋優位なのでしょう、200mくらいまではそこそこ速かったのです(運動が盛んな学校ではなかったからです)。高3のクラスをざっと見回すと、私より足の速そうなヤツは見当たりません。ただ一人、私が恐れていたのはNでした。
 体育の授業で100m走のタイム計測がありました。私はドキドキしながらNの走りを観察しましたが……。

 あれ? 全然遅いじゃん。

 体育の時間が終わったあと、Nに話しかけました。私は彼がわざと遅く走ったのではないかと疑ったのです。
「N、ほんまはもっと速いんじゃないん?」
「なんで?」
「あんた、中学ンとき不良に追いかけられたじゃろ。あんときブチ速かったで」
 そういうと、Nは「ええ! あれ見とったヤツがおったんか。なんじゃあ、誰も知らんと思うとったのに。ああ、もう、ブチショックじゃわ。生きていけんわあ」とパニックに陥りました。
「いやいや、わしは単に、あんたは足が速いんじゃないかと……」
「知らんかったわ。見られとったんかあ。しもうた。見たやつがおったんかあ……」
 延々、彼の嘆きは続きました。
 
 ちなみに、Nはあのとき逃げ切れたそうです。
 人間、追われているときが一番速く走れるのかもね。
 積善館の思い出は、Nとともにあります。