お盆に広島に行く新幹線車中で、ポランニー『暗黙知の次元』(ちくま文庫)を読みました。広島駅で「次は笑える本を読みたいな」と探していたら、角川新書のコーナーに、栗原康『無支配の哲学』を見つけたのでした。
栗原氏の文章がおもしろいので、今回は引用多めです。
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前回、狩猟採集民を知るとミニマリズムに興味が湧くと書きましたが、アナーキズムとも親和性が高いのです。無政府主義と訳されがちなアナーキズムですが、無支配主義というべきだ、と栗原氏は書きます。狩猟採集社会にはリーダーがないか、いたとしても強権を発動するわけではありません。アナーキーなのです。
[……]そういうこと[移動]をちょくちょくやりたいのに、たくさんたくわえがあったら、荷物がおもくてたいへんだろう。狩猟採集民にとって、富の蓄積は不合理だ。土地はいらない、家もいらない、財宝もいらない。必要なぶんだけ、衣食住があればいい。しかも、かれらはたんに質素なんじゃなくて、身のまわりには石も骨も皮も木もある。そのつどほしいものがあれば、だいたい自分でつくることができるのだ。石や骨をつかって装飾品だってつくれるし、 獲物の皮を剥ぎさえすれば、わたしたちが高級だとおもっている革製品だってつくることができる。ぜんぶタタだ。ジャマになったら捨てればいい。これがほんとうのぜいたくだ。あとは宴会、ダンス、宴会、ダンス、宴会、ダンス、宴会、ダンス。ダンダンダンダン、ディダンダン、ディダンディダン、ダディダンダン。うたえおどれのドンちゃんさわぎ。なんにもなくなる、スッカラカンだ。ぜんぶなくして、狩りにでろ。[人類学者の]サーリンズは、こういっている。「狩猟採集民は、何ももたないから、貧乏だと、われわれは考えがちである。むしろそのゆえに彼らは自由なのだと、考えた方がよいだろう。『きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは、日々の必需品にかんする心配からまったくまぬがれており、生活を享受しているのである』」。所有はジャマだ、捨てちまえ。わたしはなんにもしばられない。原始人なめんな。
本書では、アナーキズムやコミュニズムの思想、実践が綴られます。反逆に反逆を重ねて死んでしまう人たち。国家は強い。究極的に、クソ国家や資本主義の支配から脱する方法・人が人らしく自由になる方法を栗原氏は以下のように書きます。
国家ってのが、ひとを支配の原理で生きさせているんだとしたら、そっから死ぬ気でバックれよう。国家からはみえない異次元の生きかたをはじめるんだ。[……]逃げて、逃げて、逃げまくれ。もちろん、国家はそういう人たちのうごきを盗みだとか、犯罪だとかいってくるだろう。だったら、こっちだっていってやる。気にするな、見切り発車でぶっとばせ。いくぜ、戦闘的退却主義。負ける気しかしねえ、チョレイ!
では、「自由」ってなんでしょうか。
[……]アナキストのいう自由とはなにか。自由(freedom)の語源は、友だち(friend)である。いつでも友だちをつくりだすことはできる。その力をもっていることが自由なのだ。友だちは上司でも部下でもない。主君でも臣下でもない。主人でも奴隷でもない。上下関係があったら、それはもう友だちじゃない。
そうだよ。マウントとるようなやつは友だちじゃないんです。友達と呑みにいったら、カネを持っているヤツが払うもの。いちいち「俺があいつよりいくら多く払った」と計算しはじめたり、たくさん出してもらったと負い目を感じだしたら、もう友達じゃない。狩猟採集民も、「誰が多く獲物を分けてやった」なんて覚えてないもの。みんなも主従関係のないアナーキストにならないか?
思い出されるのは、ながら健壱『葛飾にバッタを見た』です。「きのうバッタり、道バッタで〜 昔の友達とあった」で始まる曲の2人に「持つ者 - 持たざる者」の優越感・劣等感が生じているなら、もう友達じゃありません。
バッタを見よ。自由だ。