狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

狩猟採集民という救済?

磯野真穂『他者を生きる』を読みました。磯野氏の文章を読むのは初めてかな。集英社新書編集部はなかなか良い仕事をしていると思っています。

ごく大雑把に書きますが、死や病気に関して、われわれが常識と感じていることや、定型文みたいな情報発信を警戒し相対化する、哲学的な1冊でした。統計に基づく医療へのカウンターや、自分らしく在ることへの懐疑など興味深く、挙げられている参考文献のなかには読んでみたい本が何冊もあります。ただ、最終章は私には一読では理解しにくかった。後日じっくり読み直すつもりです。

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以下は、重箱の隅をつつくような話。本書は観念的な内容なのに、形而下の考察をいたします。

第二部・第5章「狩猟採集民という救済」に触れたいのです。

「狩猟採集生活を始めた1万年前以降、人間は進化していないから狩猟採集的な生活をしたほうが不調知らずでいられる(大意)」といった言説が溢れ返ってているが、本当だろうか、という問いかけでした。その言説を用いた例として『スマホ脳』と『FACTFULLNESS』が挙げられています。私は前者を評価していませんし、後者は読んでいません(したがってAmazonとリンクせず)。

進化生物学と行動生態学が専門のマーリーン・ズックという学者の文章が紹介されています。ズックは、《狩猟採集民の暮らしは人間にとって最適であったと考え、かれらのように食べたり、生活をしたりすることを奨励する人々を「パレオファンタジー」(石器時代への幻想)と呼んで批判する。パレオファンタジーは人類学者のレスリー・アイエオが考えた言葉だ》とあります。少し長くなりますが、面白かったので引用しましょう。

 例えば糖質制限に見られるズックのパレオ派への反論は次のようなものだ。アウストラレピテクス・セディバやネアンデルタールの歯に穀物を採集・調理していた痕跡があることを挙げ、私たちの祖先が肉食中心だったというパレオ派の主張に疑義を唱える。加えて、人類は時代や場所に応じてさまざまな食べ方をしているため、ある時代の人類が同じ食べ方をしていたという見方にはそもそも無理があるし、仮に一部の狩猟採集民が肉ばかりを食べて生きていたとしても、そのことと、かれらにとって肉食が最適かどうかは別の話であると喝破する。
 さらに、農耕が始まってから1万年しか経過していないため、人間の身体は糖質過多の食事に適応できていないといったパレオ派がよくなす主張に対しては、1万年は充分な時間であると反論する。チベット人が標高数千メートルの高地で生活できるようになったり、乳製品を効率よく消化することのできる、進化したラクターゼ活性持続遺伝子を持つ人々が現れたりしたのはこの数千年であることからわかるように、人間の身体は短いタイムスパンでも変化しうるからだ。人類はある時期まで環境に完璧に適応した健康な生活を送っていたが、時代学下るほどそこから離れていったという考えは、進化についての誤解であるというのがズックの主張である。
 ズックはこのような形で、人間の進化はとうの昔に終着点に達したという思想を次のように批判する。

 座ることが多い生活は、不調に結びつきやすい。しかしその問題を改善するために、マンモス狩りをしていた原始人を見習うことはない。ただカウチから立ち上がればいいだけだ。

乳糖に対する耐性の話は、記述のとおりらしい。ネットで「ユーラシアの先史時代における起源から現代の多様性まで」(→PDF)を読みました。人間に限らずどの哺乳類も大人になるとミルクを飲まないので乳糖に適応する必要はなかったのですが、環境的にミルクの栄養に頼らざるをえない地域もありました。《乳糖耐性を獲得した人々が初めて出現するのは、人類が動物のミルクを利用するようになってから約 4,000 年後であることが分かりました》とのこと。4,000年かあ。

しかし、大人の人間がミルクを飲めるようになった事実は、穀物や砂糖に対する耐性を身につけた証拠にはなりません。もともと食べていた塊茎、果物は品種改良によりどんどん甘くなり、穀物を栽培して大量に食べるようになり、砂糖の摂取量も多くなりました。しかし血糖値を下げるホルモンはいまだにインシュリンだけ。一方、血糖値を上げるホルモンは何種類もあります。人間は低血糖には強いけど、高血糖状態に馴れてないのです。……いや、もっと明解な事実があります。熱したデンプンや砂糖は人間の硬い歯を齲蝕させます。もしも歯科医院がなければ、虫歯に悩む人が激増するはずです。私は「糖質に対する耐性を獲得しているとしても、道半ばである」と考えています。飼い犬も人間の残飯に適応しましたが、虫歯に関する事情は同じです。

(素朴な疑問。「アウストラレピテクス・セディバやネアンデルタールの歯に穀物を採集・調理していた痕跡がある」云々とあります。野生の穀物は今ほど粒がまとまって実らず、収穫しようとしたら飛び散ると読んだ記憶があるんです。脱穀の方法も知りたい。まさか精麦・精米まではしませんよね。生で食べていたのか……?)

人類が千年単位で環境に順応できるのであれば、「座ることが多い生活は」で始まる引用文は謎です。仮に現代人が長時間座って不健康になるのなら、カウチに座り続ける環境に順応するのを待てばいい。(ちなみに、アフリカのハッザは10時間以上座っているという研究もあり、長時間座ることが身体に害を及ぼすかどうかも実際わかってないようです)

私は人間が糖質に完全に適応したとは考えないので、「糖質過多が多い生活は、不調に結びつきやすい。しかしその問題を改善するために、マンモス狩りをしていた原始人を見習うことはない。ただ穀物摂取を減らし、砂糖を使わなければいいだけだ」と書いちゃいます。

とはいえ、「何をどのくらいの割合で食べればよいか」に関して私が正解を用意しているわけではありません。現代の狩猟採集生活者も、ときたまハチミツを食べる以外は、甘く品種改良されてない塊茎や果物などで炭水化物を摂っています。

自分の身体で人体実験してみればいいのです。穀物を食べるさい精白されてないものを試してみるとか、砂糖断ちをしてみるとか……。完全肉食生活も、イヌイット式の完全肉食生活をするには探検家・人類学者ヴィルヤルマー・ステファンソンの記録などが参考になるでしょう。13年間、果物以外口にしていないという中野瑞樹さんの生活にも私は注目しています。(→中野氏Twitterアカウント

──これが、私のひとまずの意見です。マーリーン・ズックの本は課題図書に加えておきます。

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最後に、私の立場を整理しておきましょう。

狩猟採集民のレポートを読むことで現代生活を見直しています。人間は本来どのように暮らしていたかを類推するために狩猟採集民をよすがにすることはありますが、狩猟採集民イコール原始人だと単純に考えているわけではありません。無文字時代の生活や考え方がわかるはずがないからです。だから私は「太古の生活を続けているといわれる狩猟採集民」くらいの表現をしているはずです。

考察の対象は、あくまでも人類学者などが記録した最近の狩猟採集民。資本主義の外にいて、国家の観念や法律もない生活を見ると、自分たちの当たり前を考え直すきっかけになります。

『他者と生きる』には、ある集団を「平均人」としてまとめる危険について語っています。これは大切なことで、サバンナ、ジャングル、海洋民、極北の狩猟採集生活者を十把一絡げにすることはできませんし、集落のなかにも多様性があります。人類学が「狩猟採集民はみんな○○だ」「日本人はみんな真面目だ」と認定しがちなことが批判されているのも肝に銘じています。それでも、平等分配主義など、狩猟採集生活には共通性があり、それらを慎重に拾いだして我々の社会と比べています。