狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

40年前の競争もしくは競走【狩猟採集民に憧れる理由 1/3】

(この件を知る人は見ないと思いますけど、だいぶんぼかします)

小学6学年の担任は生徒にやる気を出させる熱血先生として、PTAからは信頼を得ていました。いろんなルールをつくって生徒の競争心をあおる先生でした。

広島は日教組が強かったのですが(検証すればなんらかの弊害があったもしれませんが)、5年生まではとくに不満はありません。総じて民主主義的な教室運営でした。たとえば多数決をとっても少数派の権利を損なってはならない、ということを繰り返し聴かされました。

しかし、6年の先生は一方的・独断的な感じだったんです。

毎朝実施する小テストで満点をとった生徒にシールを与え、壁の模造紙の表に各自貼らせているように競争を煽りました。私は(小学生までは)勉強が得意でしたがこういったやりかたに反発し、もらったシールを捨てていました。先生が面白くないだろうことはわかっています。授業参観に来た母親が模造紙を見て「勉強できんのじゃねえ」と悲しがったときは、さすがに信念が揺らぎましたね。 

体力増強が目的だったのでしょうか。先生はある日、新たな競争を考案しました。

班ごとに、毎週どれだけ走ったか競う」と決めたのです。

ひとクラス40人以上いた時代。6、7人の班(グループ)が7つくらいあったはずです。私はある班の班長でしたが、自分がスポーツが苦手なことや、日頃から競争心を煽る先生に反撥心を覚えていたこともあり参加したくありません。班のメンバーもイヤがるので、「よし、われわれは無視しよう。怒られたら自分が責任をとる」と宣言しました。

その日からクラスのみんなは朝から放課後まで校庭の200Mトラックを走りましたが、る彼らを尻目に私たちの班は下校しました。さすがに少々後ろめたかったけどね。

競争で、一番がんばった生徒がZ君です。始業前、昼休み、放課後、とZ君はトラックを黙々と回りました。運動も勉強でもパッとしない彼がにわかに注目を集めます。私も敬意を払いました。Z君は授業の合間の10分休憩も3階の教室から駆け下り、グラウンドを数周するのです。真似をする奴も現れて、チャイムとともに数人がダッシュしました。もちろん先生も彼らの様子を見ていましよた(今思えば、ほかのクラスの先生もその奇妙な光景に気づいていたのでしょう)。

各班の集計は土曜日の「終わりの時間」におこなわれます。毎週大騒ぎでした。

Z君は個人ではいつもトップです。しかし、順位は班単位なので彼の成績だけでは決まりません。いくつかの班が、毎週デッドヒートを展開しました。

私の所属する班は毎回最下位でした。班の全員を合わせても、一週間で1、2キロくらいのもの。距離を報告するたび先生が私をじろっと一瞥しました。その目に私は内心おびえながらも、方針転換するもんか、と抵抗したのです。

ほかの班は距離争いにどんどんヒートアップします。と同時に「班」の内部で人間関係がギスギスしてきました。「おまえが走らないから負けたんだ」と叱責したり、弁当を食べるのを急かして走りたがらない女の子を引きずってトラックに出て行く生徒たちを覚えています。走らなくていい私たちの班に移りたいと嘆く生徒もいました。

ある日の授業中のこと。

女の子がキャーッと叫びました。見ると、Z君が口から泡を噴いて倒れ痙攣しています。みんな対処のしかたがわからず、おろおろ……。救急車で運ばれていきました。過度の運動により、てんかんが誘発されたのでした。

翌日、先生は競争を中止すると言いました。私にはありがたいことです。しかし、先生はなぜか説教口調で長々と話すのが不思議です。先生は「競争自体は悪くない。過度に走った生徒がいけない」と主張したいようでした。いま想像するに、競争の激化が彼の発作を引き起こしたことが教員のあいだで問題視されたのでしょう。自分の責任を軽くしたいのです。クラス中はうなだれて嵐が過ぎるのを待っていました。

先生はこう言いました。

「あれほど10分休憩に走っちゃいけないと言ったろ!」

ええっ?

授業の合間の10分休憩まで生徒が走っていたことはほかの先生も見ていたはずです。

そのことをやりすぎだと言われた担任は「10分休憩で走るのは禁止していたのに生徒が勝手にやった」と釈明し、クラスの生徒にもそう思い込ませたかったのではないでしょうか。でも、先生はむしろ寸暇を惜しんで走る生徒を褒めてさえていたのです。チャイムと同時に息を弾ませて教室に戻る生徒を叱ったりしなかった。

10分休憩に走っちゃいけない? 私はつい反応してしまいました。

「先生、ボクは聞いていません」

先生はキッと私を睨み、「言いました!」と一喝します。数秒、気まずく先生と睨み合い、クラスはシンとしました。ここは目を逸らしてはいけないと、グッと睨み合いました。

しばらく緊張が続いたあと、品行方正と見なされていた一人の女の子が顔を真っ赤にして「私も聞いてません」と応援してくれました。私の緊張はそこでほどけて、その後のことは覚えていません。

Z君はその後も数回癲癇の発作を起こし救急車で運ばれました。

可哀想なのは、先生がZくんを目の敵にしはじめたことです。私への風当たりも強くなりましたが、そんなの比じゃありません。些細なことで──たとえば、「箸の使い方が悪い!」というようなことで──Zくんを叱るのです。些細な理由で教室の後ろに立たされていたZくんが発作を起こしたこともありました。

身を以て権力者による不条理を感じたのはこのときが初めてかもしれません。……が、いま思うと、私のような反抗的な優等生(小学生までは勉強ができた)がいたことがその先生のストレスになっていたのかも知れません。 

40年前は比較的格差が少ない時代で、サラリーマンの息子の私でも私立の中高一貫校に進学させてもらえました。私が私立中学に合格したとき担任の先生がうちに電話をかけ、「あの中学に行ってもモノにならない。公立中学に入れなさい」と進言したそうです。大きなお世話です……が、たしかにモノにはならなかったなあ。