狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

映画『教育と愛国』および大森

キネカ大森まで行き、映画『教育と愛国』(2022、MBS)をやっと観ました。

監督は斉加尚代、ナレーションが井浦新。2017年度にギャラクシー大賞を受賞したテレビ番組に、新たな取材を追加して映画化した話題作です。観る数日前にJCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞を受賞したと聞き、観客が増えるんじゃないかなと考えたのですが、杞憂でした。

政治および保守勢力が教育に介入していることを告発するドキュメントです。

第1次安倍晋三内閣は教育基本法に手をつけました。道徳教育や愛国教育を盛り込んだ現行の教育基本法を強行採決したのは2006年12月のことです。

2012年、大阪でひらかれた日本教育再生機構の講演会で、安倍晋三と松井一郎大阪府知事は「政治で教育を変えよう」と発言して握手するシーンはこの映画でも紹介されます。同年、民主党政権が終了し、第2次安倍政権が発足。以来、菅義偉政権にいたるまで、下村博文や萩生田光一ら文教族が教育を利権化して貪りました。

保守を自称する人々が思い通りに歴史を歪曲してきた事実も丁寧に描かれています。安倍政権は、関東大震災直後の朝鮮人虐殺、従軍慰安婦、沖縄戦など日本軍による加害を過小に見積もり、教科書に反映させました。菅氏は、政府に批判的な学者を日本学術会議にメンバーに任命しないという異例かつ違法な決定をし、覆しません。

だいたい既知の出来事ですし、挿入される国会質疑などもリアルタイムで見ていたので大半はおさらいのような内容でした。「自分はテレビ版を観たのかな。そんなはずないけど……」と感じながら眺めていたほどです。

もちろん、新情報もありました。驚いたのは、東京大学名誉教授・伊藤隆のインタビューです。とくに次のセリフには肝を冷やしました。

「歴史から学ぶ必要なんてありません」

これが歴史学者のセリフでしょうか。近代史を知らなければ、道徳(修身)教育と愛国教育の復活を見て「戦前回帰ではないか?」と疑えないではありませんか。

学校現場で教育勅語の暗誦など少国民を洗脳し、ウルトラナショナリズム(超国家主義)に邁進した日本。あんな過去を繰り返してはならないのです。みんな、近現代史を学びましょう。

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映画館を出て、大森駅北口の坂道を上りました。

日本の政治界には世襲、それも薩長の末裔がたくさんいます。大久保利通、牧野伸顕、吉田茂、鈴木善幸、麻生太郞、佐藤栄作、岸信介、安倍晋三らはみんな縁戚関係にあります。安倍晋三にとって、日本の加害や敗戦は先祖の不都合な真実なのです。教科書から日本の加害を消そうとした理由の1つはそれなのではなかろうか。(学校で近現代史になかなかたどりつかないのもそのせいだったりして)

──そんなこと考えながら、大森の坂道を上りました。

闇坂(くらやみざか)という名前だったんだ。高台あたりは高級住宅地でした。

かつて、この一帯は馬込文士村と呼ばれました。川端康成や尾崎士郎や萩原朔太郎ら文学者が何十人も住んでいたのです。今とちがって当時は東京の郊外で、わりとリーズナブルな町だったはず。暑いなか、古本屋を回ったりしながら、てくてく4キロほど歩きましたとさ。

フォームと日々のジョグ

拾ってきた画像です。右は、NHKが2012年に放映したハイレ・ゲブレシラシエ選手。左の一山麻緒選手と前田穂南選手は、2020年の大阪国際女子マラソンです。一山選手は厚底、前田選手は薄底ソーティマジックを履いています。

今回は前田選手のフォームを中心に考えます。

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過去に何度か、ランニングフォームに関して自己流の考えを書いてきました。

みなさん、その場に立ってみましょう。猫背の人は骨盤を前傾させて胸を張り肩胛骨を下げます。その姿勢から、肩胛骨の間を押されたように鳩尾辺りを突き出すと、だんだん爪先に重心がかかり、しまいには倒れる感覚が得られます。おそらくそれが正しい「前傾」です。猫背になって首を突き出したり、お辞儀をしても前につんのめったりしなません。「初めまして」とお辞儀したときに、おっとっと、と前に数歩進んだ人はいないのです。

厚底シューズを履いたことがない私がよく言うよ、ですが、おそらくあれらのシューズはカーボンのふくらんでいるところ(フォアフット部分)を直につぶすことでより反撥力を得られるはずです。

ゲブレシラシエ選手と一山選手は私の考える正しい前傾ができています。フォアフット着地したあと、ぐっと胸を突き出して重心を前に出せば、支持脚を上体が素早く乗り越え、身体は前に向かって弾んでくれます。それは厚底カーボンプレートシューズ限定のフォームではありません。速く走る基本的なランニングフォームだと考えています。現に、ゲブラシラシエ選手は薄底シューズです。

対照的に、2020年の前田選手は骨盤がそれほど前傾していません。一山選手と比較して重心が少し後ろにあるため、着地して得られる反撥力はやや上方に逃げる(=上に跳ねてしまう)ことになります。ベクトルを前方に向けられないフォームです。

彼女が厚底シューズを履かなかった(履けなかった)のは、前ではなく上に弾んでしまうからでしょう。素晴らしい選手でありますが、わずかな推進力の差が、42キロ分積み重なると勝負に響くはずです。

今年5月、前田選手は初めて厚底シューズを履き、仙台ハーフで優勝。7月には、函館のハーフマラソンで自己ベストを更新(1:08:28)しました。フォームも改善されて背中に反りができ、動画を見ると、着地もフラット気味になっています。

厚底の前田選手。腰が入った、ダイナミックなフォームです。26歳ですから、伸びしろは充分あると思っています。少し痩せすぎじゃない?

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さて──。第2のランニング人生をはじめた私の話です。

第1のランニング人生では、ひたすら月間300〜500km走っていたところ、それなりに走力がつきました。しかし、日々のジョギングでは腰が落ちたひどい走り方をしていたんです。当時の私は、ジョグでは距離を踏むことが主たる目的でした。小さな筋肉でもゆるジョグはできますから、腰が落ち、末端の筋肉を使ってタラタラ走っていたものです。もったいないことをしました。

最近スタートした第2のランニング人生では、キロ6分〜7分半くらいのペースで走っているものの、鳩尾から臍のあたりを前に出し、骨盤を前傾して走っています(骨盤の前傾に関しては個人差があり、前傾しすぎている人もいるらしい)。翌日ダメージを感じるのは、お尻やハムなどの大きな筋肉です。

「日々のジョグが大切」とよく聞きますが、第1のランニング人生から約20年かけてその意味がわかっただなんて、自分の頭の悪さがつくづく悲しゅうございます。

走る距離こそ減ったものの、私は筋力の低下などを感じていません。やる気次第でまたタイムを更新できそうな気がします。やる気が出るかどうかは、今はわかりません。

政治家と統一教会、国葬、オリンピック

愚痴を書きます。

2012年、第2次安倍晋三政権が発足したとき、何人かの政治評論家が「安倍氏は周りにイエスマンしか置かないからダメだ」と言ったものです。民主主義国家でそんなことできるわけないだろうと鼻で笑った私は間違っていました。安倍氏は、国会でウソを並べ、熟議を経ずに重要法案を強行採決で決めていき、お友だち優遇資本主義をやり、人事権を握って官僚をコントロールし、(直接指示していないかもしれませんが、少なくとも周囲が忖度して)公文書改竄や廃棄までやってしまいました。検察は動かず、裁判所は政府に有利な判断を下します。

与党政治家にとって大事なのは、国民のために働くことではなく次の選挙で当選することです。「国会」議員なのに、国会を開かないのはなぜでしょう。衆参どちらかの議院の総議員の4分の1以上から要求があったら、内閣は臨時国会を開かなければなりませんが、「憲法には何日以内に開けとは書いてないもん」という子供じみた理由で逃げ回ります。国会を開かないのは国民に対する裏切りですが、自分たちの地位を守ることには努力を惜しみません。票を獲得するためには反社会的団体とも手を結ぶのです。安倍氏らが統一教会と関係していたのは周知の事実ですが、毎日明らかになる自民(とくに清和会)と旧統一教会の関係は予想を遥かに上回っています。地方メディアは都道県知事や地元政治家も調査すべきでしょう。

安倍氏の国葬まであと3週間。法的根拠もなく、国会での質疑もなく、世論調査では軒並み国民の過半数が反対しているのに、税金を使って国葬をやるというのです。さらに安倍氏の統一教会の関係ふくむ数々の問題を明らかにしないのに、国全体で弔意を示すなんて。なんとか形を保っていたように見える民主主義がこの10年で根腐れしました。閣議決定だけですべてが決まるのであれば、ウルトラナショナリズムの戦前・戦中と同じです。最近、近視眼的な「生産性」つまり金儲けばかりが持て囃され、学問や論理や知性を冷笑する風潮があります。法律を無視するもその一環でしょうか。国会で小西洋之議員から「法の支配の反対はなにか」と聞かれた安倍首相(当時)が「人の支配」と答えられなかったのを思い出します。

岸田文雄首相は、8月末日の記者会見で、こう言いました。「(略)国会の場で、閉会中審査の形で、私自身が出席をし、テレビ入りで国葬儀に関する私の決断について質疑にお答えするという機会を頂きたいと考えております。一日でも早くこうした場をつくるべく、与党幹事長、国対委員長に必要な調整を行っていただくよう、先ほどお願いいたしました。野党の皆様にも御協力を賜れれば幸いです」──。国会を開くか開かないかは立法府の長=衆参の議長が判断するものですが、行政府の長=内閣総理大臣が閉会中審査の開催を判断できる(そのうえ、NHKの中継まで決められる)という画期的なセリフでした。安倍氏は「国会を開くか開かないかは、こりゃまさに、これはまさにですね、国会がお決めになることでごじゃます」が逃げ口上でしたが、岸田氏は自分で決められると言うのです。……またしても、法律とはなんぞや? と感じた次第です。

コロナの流行にも限らず、なぜ東京オリンピックを開いたのかといえば、儲けたい人が儲かるからです。昨年6月、オリンピック会場で酒類販売の可否について問われた丸川珠代五輪担当大臣(当時)が「ステークホルダー(利害関係者)の存在があるので組織はそのことを念頭に」云々と本音を口走りました。オリンピックは選手や観客のためのお祭りではありません。チケット代は総収入の5%程度だから、さして影響はないため、オリンピックという祝賀資本主義(by ボイコフ)で充分儲けることができるのです。招致のときから裏金が飛び交い、利権を得ようとする企業がたくさんあります。AOKIから賄賂を受け取った組織委の元理事・高橋治之容疑者が逮捕され、いろんな企業や政治家の名前が出て来ています。ステークホルダーの親玉であるIOC会長バッハは、引きつづき札幌からもぼったくろうとしているのです。もうオリンピックなんか要らない。

正しい日本語?

あるところで、「正しい日本語」というフレーズを聞いて思い出したこと。

二十年くらい前の話です。mixi に「正しい日本語」みたいなコミュニティがいくつかありまして、よく炎上が起きていました。

ら抜き言葉に腹が立つ、といったことが必ず書かれています。でも、現在、ら抜き言葉ではないとされる「入(はい)れる」は、百年ほど前は「入られる」だったんだとか。ある世代が正しいと信じる日本語には、以前は間違っていると思われていたものが含まれているんです。「正しい日本語」は幻想でしかなく、存在すると信じていたら足許をすくわれてしまうでしょう。

私は日本語ウォッチャーとして、変わりゆく言葉を楽しんでいます。自分なりに使う言葉・使わない言葉の基準はありますが、他人に押しつけたりしません。

ある夜、mixi を見ていたら、「女王」は「じょおう」が正しいのに、「じょうおう」と間違えて読んでしまう人がいるのが許せん、という投稿に出くわしました。私は、絶対に「じょおう」にせよとは考えません。むしろ、どうして「じょうおう」に転じてしまうのか、を考えたい。

その投稿に、天才を自称する女性(ネカマかもしれません)がコメントしていました。曰く……「じょうおう」は間違いではあるが、「王」はもともと「をう=wou」であったことから「jowou=じょをう=じょうおう」と先祖返りしたのである。

天才女性の断言に、多くの人が「なるほど」と感心していましたが、私は納得できません。その日の私は酔っていたのでしょうか、初めてコメントしてしまいました。「言葉が先祖返りするなんて聞いたことがありません。『じょおう』より『じょうおう』のほうが音の座りが良かった、くらいのことでは?」

翌朝見ると、天才女性が反論にならない反論を書いていました。自分は天才であるうえ日本語の辞書の全て(改版されたものも全部)を持っているくらいだから、凡人ごときのイチャモンはまかりならん、といった感情的な文章でした。

さすがに心がざわつきましたが、私はことさら冷静に書きます。「女房」や「女御」を「にょばう」「にょご」ではなく、「にょうぼう」「にょうご」と読みます。あれらは「じょおう」を「じょうおう」と読んでしまうのと同じで、語感を整えたものではかありますまいか。「房」や「御」は、「を=wo」と無関係です。「夫婦」に「う」を挿んで「ふうふ」と読むのも似たようなものでしょう。

天才女性は、自分が持っているあらゆる辞書に「にょばう」「にょご」「ふふ」なんて載ってない、あれらは最初から「にょうばう」「にょうご」「ふうふ」だ、見たか凡人めキーッ、と反応しました。

私は最後までお付き合いすることにしました。「天才女性さんはすべての古語辞典をお持ちだそうですが、私の手許の辞書には、たとえば『女房馬方=にょぼむまかた』(女の馬方)なんて言葉も載っていますよ」なんて返信します。

──天才女性の粘着ぶりはすさまじく、少々疲れました。やりとりしている間、数人の人が「大変なひとを相手にしてしまいましたね。頑張ってください」とメッセージをくれました。

あれこれ検索しているうち、天才女性さんの先祖返り説が(言葉の専門家ではないらしい)ある人のブログを丸写ししていることに、途中で気づいていたんです。盗用していると思われますが、ブログ主本人とやりとりしている可能性もありました。

おそらく、天才女性と私の議論らしきものを読んでいたであろう誰かが、上記ブログに私の意見と同じコメントを寄せました。

「女王」を「じょうおう」と読んでしまうのは、「女房」「女御」を「にょうばう」「にょうご」と読むのと同じではありませんか?

ブログ主は「これは痛いところをつかれました」といった趣旨の返信をしました。

するとどうでしょう。

天才女性は、自分のコメントをすべて消したばかりか、アカウント自体を閉じてしまったのです。驚きの早業でした。マイミク(死語?)になってほしかったのに。

夏休みの写真

最近、夏休みの終了はバラバラだそうですが、私の頭のなかではやはり8月末日です。

私は、夏休みの宿題のうち、問題集のたぐいは最初の2、3日で終わらせていましたが、自由研究・読書感想文・図画工作・絵日記などを最後まで残して慌てるタイプでした。いま考えると、宿題って多かったんですね。

小学2年生のときは自由研究を珍しくきちんとやりました。カブトムシを観察したんです。しかし、毎日眺めていても変化はありません。しかたがにないので、幼虫の絵を一枚描き、サナギになり、成虫になった日付と絵を描いて画用紙数枚を提出しました。

その年の、夏休みの自由研究や工作の優秀作が学校の体育館に展示されました。なかに、同学年の生徒がやった「カブトムシの研究」が展示されていました。何十枚もの画用紙の束なので驚きました。「いったい、どうやったらこんなに分厚くなるんだろう」とめくると、毎日毎日、幼虫の絵が描かれていて、めくるたび「今日も同じ」「今日も同じ」と繰り返されていたのでした。ええっ、こんなふうにやるもん? と私は脱力したのでした。

閑話休題。夏休みの夕方ジョグに撮った写真より(既にこのブログに載せたものは除く)

7月25日。水遊びする高校生。


7月27日。


8月7日。


8月9日。カドを曲がるとき、「誰かいるな」と思ったら植え込みでした。夜中だったらビックリしたでしょう。


8月11日。満月の前日だったようです。旧暦7月14日。旧盆の前日。


8月14日。ベランダにやってきたトンボ。

8月28日。忌野清志郎が通っていた学校。新校舎は来年完成だとか。

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第2のランニング人生を始めて2ヶ月余り。8月はたらたら160km走りました。終盤は涼しくなったので、(2度目に)生まれて初めて4日連続で10km走っちゃったぞ。そのうち1日は(2度目に)生まれて初めて60分以内で10km走ったぞ。

9月23日の秋分の日までに体重を64kg台にしようと目論んでいましたが、すでに目標を達成しています。

夏至から冬至まで……その3 安静時の心拍数

「夏至から冬至まで……その1」
「夏至から冬至まで……その2」の続編です。

走る気をなくしたオッサンが過去の走暦を完全に忘れつつ、わざと太って「しかたないから減量のために走るか」と2度目のランニング人生を開始しました──というシリーズの第3弾です。

一時期69kgオーバーで、「穿けるパンツがなくなるぞ」とさすがに焦りました。ジョギング初日など、腹や胸の贅肉がユサユサ揺れしている感じがします。体重80kgオーバーでサブフォーを目指す同級生に会うたび「痩せたら速くなるのに」と言っていますが、ヤツは大変なことをしているんだと感心した次第。

最終目標は、冬至(12/22)までに62.5kg(1度目のマラソン人生の標準体重)ですが、ひとまず秋分の日(9/23)までに65kgを切る予定です。もう数日で切りそうですが。

7/21から8/20までの31日間は仕事や雨やらで8日間サボっています。1日あたり6km、ただし前日の体重を上回った場合は7kmというマイルールを自らに課して走りました。31日間の走行距離は156.5km。蒸し暑うございました。キロ7分〜7分半ペースです。1度目のランニング人生のときも真夏はそんなペースでした。あのころは、6、7、8月のどれかでゆっくり月間500km以上走ってたなあ。頭おかしいわ。

体重は、朝イチにマッパで計っています。

本日21日朝は65.20kg。

だいたい2ヶ月で3.5kgほど減量したことになりますが、私の場合、15年ほど体重が62.5kgだったので、順調に体重が減っているのはホメオスタシス(恒常性)が関与している可能性があります。すなわち、長らく62kg台だったのを1年ほどで69kg台にしたため、脳が体重増を異常事態とみなして頑張って痩せようとしているのかもしれません。

ともかく秋分までの目標は達成できそうです。

ああ、それから……。8月21日の夕方は7km走りましたが、涼しかったので、2度目のランニング人生初の1キロ平均6分弱ペースで走れました。

もうひとつ。ワクチンを2回接種して以来、安静時の心拍数が70拍/分以上になり、少しスピードを上げるとゼエゼエしていました。ジョギングから遠のいた一因はそれだったんです。最近は、ワクチン前の60拍/分以下に戻っています。

初の女性棋士、誕生なるか?

プロ編入試験がスタート

里見香奈女流五冠のプロ棋士編入試験が本日スタートしました。男性プロ棋士5人と対局して3勝すれば、史上初の女性プロ棋士が誕生します。

羽生善治九段や藤井聡太五冠ら将棋のプロは男性しかいなません。女流棋士と呼ばれる女性は約70名いますが、段位などの規定もプロ棋士とは別です。プロ棋界が女性を門前払いしているわけではありません。下記で説明する奨励会を勝ち上がった女性がいないのです。

細かい例外規定は省略しますが、プロ棋士になるには、5級や6級で奨励会に入会した天才少年少女が鎬をけずって昇級昇段し、三段リーグを半年戦って上位2人になる必要があります。基本的に1年に4人の新人枠しかありません。しかも年齢制限があり、25歳のうちに四段になれなければ、強制的に退会となります。

三段リーグまで進んだ女性は、里見香奈、西山朋佳、中七海の3人。里見は年齢制限で退会、西山は一度次点の3位になりましたが退会、中は現在三段リーグに在籍しています。ちなみに、今期三段リーグには41人が在籍しています。

じつはプロ棋士になるにはもう1つ道があるんです。トップアマやトップ女流棋士の枠をもうけているプロ公式棋戦で一定の成績(最も良いところから見て10勝以上、なおかつ6割5分以上の成績)を挙げた場合、プロ編入試験の受験資格を得られます。里見香奈はこの条件を充たしまして、挑戦しているのです。過去に男性3人がこの試験に合格しました。いずれも、元奨励会三段のトップアマでした。

女流棋界vs.男性プロ棋士

女流棋士制度ができたのは1974年。最初は6人でした。蛸島彰子や山下カズ子らが女流棋戦のトップとプロ棋士との実力差は雲泥の違いがありました。彼女たちの存在は、テレビ対局やイベントの花という位置づけでした。

1980年に女流プロデビューをした林葉直子は女性のなかでは圧倒的に強かったのですが、プロ棋士には敵わずじまいでした。

実力の世界だからしかたない面もあるとはいえ、将棋界では女性の肩身が狭かった。女は論理的思考が不得意だから将棋が弱いなんてことが、40年くらい前は将棋雑誌に平然と書かれていました。升田幸三実力制第四代名人は、十代だった中井広恵に「女は将棋が弱くても抱き心地が良ければいい」と言ったのは有名な話です。

林葉と同世代の中井広恵・清水市代が地道に実力をつけ、1993年、女性として初めて男性プロ棋士に勝利したのは中井でした。1993年、対プロ棋士39局目の快挙でした。以後、勝率は低いものの男性プロ棋士に勝つ女流棋士が複数出て来ました。中井がNHK杯でA級棋士だった青野照市に勝ったのは衝撃的でした。

約半世紀の歴史をもつ女流棋界にとって女性プロ棋士の誕生は悲願でしょう。

ニューロミスに打ち克て

私は女流棋士がなかなか誕生しないのは、ジェンダー(社会的につくられる性差)やニューロミス(神経神話)の問題とともに語れるのではないかと考えているのです。

男脳/女脳なんてテーマの本がときどきベストセラーになります。立ち読みすると、男の脳があなたをなになにさせると書かれていますが、根拠となる論文などは示されていません。

男女の脳が違うという科学的根拠は今現在ないそうです。2007年、経済協力開発機構(OECD)が発表した「脳から見た学習」では、「男女の脳は違う」という説をエセ科学とし、ニューロミス(神経神話)と名づけました。もし仮にちょっと男女差があるとしても「男は女より背が高い」みたいな平均値の話になるんじゃないでしょうか。背の低い男や背の高い女がいるように、個々を見たら、男女とも性差の平均値を飛び越える気がします。

「女は数学ができない」という偏見を人々が内面化すると本当に女性は数学が不得意になるといいます。ジェンダーギャップが少ない国ほど、数学ができたり、地図を読めたり、運転が得意な女性が多いという統計もあるそうです。日本でも、男に加点して合格させていた医学部が批判を受け、男女差をなくしたら女の合格者が男を上回ったというではありませんか。

ジェンダーフリーの考えが若い世代には浸透しはじめているようですが、政治家や企業の役員を見ても、オッサンばかり。日本は「オヤジの背脂チャッチャ社会」(by 橋本治)です。しかし、女性を差別し、男だけで世の中をまわすとすれば、才能ある人の半分を切り捨てていることになります。

里見香奈女流に、差別的な固定観念をぶち壊してほしいのです。人任せですみません。