狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『皮膚の秘密』

『皮膚の秘密』という本を読みました。著者はドイツの皮膚科医。原著は2016年刊とのこと。スキンケア、セックス、皮膚に関連した病気や栄養のことなど話題が幅広く、やや専門的な雑学書という感じでした。私は臓器としての皮膚の話や、常在菌について詳しく読みたかったので(多少は書いてありましたが)やや期待外れでしたが……。

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当ブログは、「人間は本来どんな動物なのか(走り方ふくめて)」を研究しています。

『皮膚の秘密』には、旧石器時代とか原始人とかを例に挙げた記述がたくさんありました。一部引用しましょう。

汗ばんだ手と汗臭い足の裏を想像して「嫌だわ!」と思われた方は待ってください。(略)汗は皮膚の滑り止めになります。だから私たちの先祖はクマに突然遭遇しても、転ばず手に逃げることができたのです。汗の分泌は生き残るために必要な身体的機能でした。(略)
 想像しにくいかもしれませんが、私たちの身体と皮膚は現代においてもなお、いつ野生の動物に襲われてもおかしくない石器時代の状態のままです。そんなことはお構いなしに、人間は広大な荒野を都会のジャングルにすり替えてしまいました。これは実は、自然の理に反することなのです!(24p)

 私たちが唾液を健康な状態に保ち、自然の万能薬として利用するためには、歯と口腔内の衛生管理が不可欠です。現代人の食生活は石器時代の食生活とは比べようもないくらい変化しました。炭水化物(多くの場合、砂糖やシロップとして)を大量に摂取し、根野菜を食べなくなり、口腔内フローラは劇的に悪化しました。(297p) 

 石器時代の人々は、オメガ3脂肪酸とオメガ6脂肪酸をバランスよく摂取していて、両脂肪酸の摂取比率は一対一でした。日本では今でも一対四を維持しています。西洋人は日本人にならってせめて一対五を目指すべきだと栄養学の専門家は考えています。しかし「文明化された」西洋世界では、一対一〇〜一対二〇が普通で、オメガ3脂肪酸が体内で機能しない状況が続いています。その結果、成人病や皮膚炎をはじめとする炎症性疾患が増えています。(344p)

人間は[註──肉食獣と草食獣]両者の混合型です。臼歯と犬歯と列肉歯のすべてを持っています。
 歯から判断すると、自然は人間に混合食をすすめていることがわかります。食事だけを見ると、人間はイノシシの親戚とも言えるでしょう。ですから現代病とも呼べる肉の過剰摂取でない限りは、肉を食べてもいいのです。(348p)

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ここ2年半くらい、私はシャンプーを使わず塩水で洗髪しています。頭皮のトラブルがなくなり毛髪が太くなりました。多くはなったとは思いませんけど。打ち合わせなどの前日は髪を石鹸でサッと洗いますが、そもそもこの1年ほとんど人に会っていません。

シャンプーをやめたあと、化学物質が毛穴から身体に入るのはよくないと読んで納得し、ボディソープもやめました。

純石鹸を泡立てて皮膚につけ、しばらくして洗い流しています。こちらは頭皮のような目立った変化はありません。そもそも、人間の歴史のなかで石鹸を洗うようになったのはつい最近です。つまり、ほんの少し前まで、人間は水浴びくらいしかしていなかったし、それでなんのトラブルもなかったのです。

『皮膚の秘密』の著者も旧石器時代を引き合いに、シャワーや風呂は週一回でいいと書いています。しかし無菌・無臭を良しとする社会で、そういうわけにもいきませんよね。(天然由来であっても)石鹸はアルカリ性で弱酸性の肌には合わないから、弱酸性のボディソープでデリケートゾーンを洗うのがいいと書かれていました。

日焼け止めに関しては、平野卿子著『肌断食』と日焼け止めクリームの考え方などが違います。そのあたりは自分の身体で実験するしかありません。

ソロー「市民の抵抗」

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)

  • 作者:H.D.ソロー
  • 発売日: 1997/11/17
  • メディア: 文庫
 

岩波文庫のH.D.ソロー『市民の抵抗』の表題エッセイを読みました。1849年に発表されたもののようです。

ソローは、非道な政府より自らの良心に従えと書いています。

私の考えでは、われわれはまず第一に人間でなくてはならず、しかるのち統治される人間となるべきである。(略)私が当然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考えるとおりに実行することである。(12ページ)

 法律への過度の尊敬から生じる、ありふれた、しかも当然の結果がどんなものであるか知りたければ、大佐、大尉、伍長、兵卒、弾薬運びの少年兵、そのほかありとあらゆる兵士の縦隊が、みごとに隊伍を整えて、丘を越え、谷を越え、戦場へと進軍していくさまを見ればよい。彼らは、みずからの意志にさからい、そう、みずからの常識と良心にさからいつつ前進しているので、行路はひときわけわしく、動悸はひときわはげしくなる。彼らは、自分たちが呪うべき仕事にたずさわっていることをよく知っているのだ。(12ページ)

 ごく少数の者たち、たとえば英雄、愛国者、殉教者、偉大な改革者、それに人間の名に価する人間などが、肉体や頭脳ばかりでなく、良心をもって国家に仕えており、だからこそ彼らの大部分は国家に抵抗せざるを得ないのだ。そこで彼らは一般に、国家からは敵として扱われる。(14ページ)

ソローは、奴隷制度や政府によるメキシコ侵略戦争を不正と考え、人頭税の納税を何年も拒みます。解説によりますと、知り合いの収税吏兼保安官サムに数年分の人頭税の支払いを求められ、「立て替えておこうか?」とまで言われたのに、ソローは拒みました。サムが「このわしはどうすればいいんだ?」と言うと、ソローは「保安官をやめたらいいじゃないか」と応じて怒りを買い、投獄されたそうです。(親戚が肩代わりしてくれて、翌日、心ならずも釈放されました)

 人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。

もし収税吏とか、ほかの役人が、あの収税吏とおなじように「だけど、私はどうしたらいいのだろう?」とたずねたならば、私は、「本気でなんとかしたければ、辞職しなさい」と答えるだろう。

日本では、ここ数年、あちこちの官僚が不正を働いています。安倍・菅政権が官僚の人事を握り、いいように忖度させているからです。今は、総務省の接待問題で──これは国家公務員倫理法違反というより贈収賄問題ではないのか──、総務省の官僚が集団記憶喪失になり、半年前の公用車の記録が消えたりしています。役人はやめたほうがいいと思うけど、次から次へと忖度役人は出てきます。出世って余程おいしいのでしょう。

海外を見れば、たとえば、ミャンマーの軍事政権が国民に向けて発砲しています。兵士は自分の良心にしたがっているのか、あるいは、《およそ人間としてではなく、機械として、その肉体によって国家に仕え》(13ページ)ているのか。

毎日のように不正が発覚する政府に対して、私はどう抵抗すればいいのでしょうか。さてさてさてさて。

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余談です──。

ソローは1862年5月に44歳でなくなりました。没後、アメリカの奴隷は徐々に解放されることになります。ソローは草場の蔭でよろこんだかもしれません。

しかし、その後は奴隷はいないのでしょうか。植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社新書)には、資本主義には奴隷が必要不可欠であると書かれていました。資本家は奴隷に変わって労働者を搾取しつづけます。いやむしろ、衣食住を提供しないぶん、奴隷よりも安上がりかもしれません。マルクスは資本主義を「隠された奴隷制」と呼んだそうなのです。

資本主義(Capitalism)という言葉が生まれたのは1850年。『資本論』第一巻が刊行されたのは1867年。だいたい19世紀半ばからの社会システムと言えるのでしょう。

ソローも、1854年刊の『森の生活』で、資本主義のことをこんなふうに書いています。

 わが国の工場制度は、人間が衣類を得るのに最上の方法だとは思えない。職工たちの労働条件は、日一日とイギリスの状態に近づいている。これは別におどろくにはあたらない。私が見聞したかぎりでは、工場制度の主たる目的は、人間が正直に働いた金でちゃんと服を着られるようにすることではなく、明らかに会社を肥らせることにあるからだ。(岩波文庫・上巻52ページ) 

隠された奴隷制 (集英社新書)

隠された奴隷制 (集英社新書)

  • 作者:植村 邦彦
  • 発売日: 2019/07/17
  • メディア: 新書
 
森の生活 上: ウォールデン (岩波文庫)

森の生活 上: ウォールデン (岩波文庫)

 
森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)

  • 作者:H.D ソロー
  • 発売日: 1995/09/18
  • メディア: 文庫
 

今月はお尻強化月間

今月はお尻強化月間でして、1日100回スクワットをしています。「30回スクワットを1日に3セットやって、10回をスクワットジャンプ」とか「50回、30回、20回」とか、とにかく100回です。休息日を設けたほうが効果があると知っていますが、決めたことをやれるかどうかが課題です。………少しは走るようにしていますが、お尻やハムがきついので、6:30/km〜7:30/kmのよろよろペースです。

アチェベ『崩れゆく絆』

アチェベ『崩れゆく絆』(光文社古典新訳文庫)を読みました。著者チヌア・アチェベ(1930〜2013)はイギリス領であったナイジェリアに生まれます。キリスト教信者の両親に育てられイギリスにも渡っています。本書は1958年刊行。アフリカ文学の先駆という位置づけの、記念碑的作品だそうです。

舞台は定住・農耕があり、階級があり、女性や子供を蔑視し、奴隷や被差別民がいる、首長制社会です。リーダーなく平等分配社会が特徴の狩猟採集民ファンにとって好ましい社会ではありません。集落には祖霊がいて、農耕の儀礼などが行われます。主人公オコンクウォは勇猛果敢な男性ですが、圧政的で、雄々しくありたいがために暴力をふるったりします。

村の暮らし、事件、昔話などが綴られたあと、村に白人がやってきます。オコンクウォはどう対処するのか、緊張が高まります……。

いい小説でした。白人社会がアンハッピーで、未開社会がハッピーという、単純な二項対立にしてないのが作品に奥行きを与えています。

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解説にあるとおり、学術的な記録ではないので人類学的な視点で読まないほうがいいのだろうと感じます。ヨーロッパがアフリカ大陸を植民地にする前は、農耕民、牧畜民、狩猟採集民が混在していました。帝国主義的な支配により、無文字社会の人たちの文化や伝承がなくなるのは残念です。

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

 

まさかコロナ第4波?

親戚のうち何人かの、10年目の命日を迎えました。

今日は東日本大震災のときほどではありませんが、コロナに影響されて彩りのとぼしい暮らしをしています。テレビはポポポポーンと言わないでしょうし、電気は灯っていますが、晴れていても街の色がくすんで見えます。

さて。

東洋経済オンラインの新型コロナウイルス情報(→リンク)でときどき実効再生産数をチェックするんです。実効再生産数は、1人の感染者が何人に感染させたかという数字ですから、1を越えれば新規感染者は増えていき、1未満であれば減っていきます。潜伏期間の中央値や感染期間(何日間にわたって感染力を有するか)がどの程度かわからないので、発表されたデータをただ眺めているだけです。

全国的に見ると、ここのところ「1」をわずかに越えているんですよね。

東洋経済オンラインの実効再生産数に新規陽性者のグラフを重ねてみました。

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最近の話で言うと、クリスマスなどで街が賑わったあと、12月28日に GoTo トラベルを全国停止した影響か、1月初旬に実効再生算数1.5以上まで上がったのが減少に転じ、1月中旬あたりから1以下になっています。新規陽性者も減っていき、みんな一安心したところです。ところが、0.7台が続いたあと、漸増。いま現在1オーバーとなっています。

実効再生産数が数十日連続して1を切るのは大きな波のあとです。では、第1波、第2波、第3波のあと、1未満の日がそれぞれ何日続いたでしょうか?

  1. 2020年4月19日〜5月28日(40日間)
    または一時期1を越えますが、4月19〜6月13日(56日間)
  2. 2020年8月11日〜9月29日(50日間)※9月中旬に2日間1を越えたが誤差として無視。
    もしくは、10月の4日連続を加えて8月11日〜10月10日(61日間)
  3. 2021年1月17日〜3月4日(47日)

およそ40〜50日、長く見積もっても60日といったところです。

(ちなみに、実効再生産数「1」以上を波としてみると、
 第1波は2020年3月24日〜4月18日として26日、
 第2波は2020年6月14日〜8月10日として58日、
 第3波は2020年10月11日〜2021年1月16日として98日)

ここ数日の1.0台が長期的に見て無視できる程度ならいいんですけど、第3波のあと底を打ち、もう第4波が始まっている可能性があります。政府やとくに大都市の首長は、医療体制の改善や検査拡充など、早め早めに手を打ってほしいけど、あの人たちに期待できるだろうか……。

予定通り、3月21日に1都3県の緊急事態宣言が解除され、27日には聖火リレーがスタート、そのうえ GoTo トラベル再開なんてことになったら……。

『「縮み」志向の日本人』

私は狩猟採集社会と対立させることで現代社会を捉え直していますが、同じように、欧米と比較対象した日本人論をときどき読んでいます。『菊と刀』の新訳も買わなきゃ。

未読だった李御寧『「縮み」志向の日本人』(講談社学術文庫)を読みました。原著は1982年刊。私は80年代後半に大学受験をしたんですが、現代文でイヤになるくらい読まされました。相当流行っていたのでしょう。

冒頭、土居健郎『「甘え」の構造』などの日本人論を《(略)主として英米人との単純比較を通じて得られたものが、かなり見受けられます》とを批判しています。私も、土居のいう「甘え」や阿部謹也の「世間」などは、アジアとも比較すべきだとかねがね考えていたのです。

著者は韓国と比較することで日本人の特質を考えていきます。見えてきたのが、日本の「縮み志向」でした。

 一見、単純に見えますが、「縮み志向」と「拡がり志向」の二項対立は、秩序と混乱、閉鎖と開放、具象と抽象、形式と実質、緊張と弛み、拘束と自由など、あまたの対立体系の象徴を持っていますから、文化の幅広い分野を証明することが可能です。
 もともと収縮と拡散は動詞から作られた概念ですから、力学的なものであり、イデオロギー的な価値を含んでいないため、文化に対してよりニュートラルな記述も可能です。(121ページ)

日本文化の縮み志向には6タイプがあると言います。

  1. 入れ子型──込める
  2. 扇子型──折畳む・握る・寄せる
  3. 姉さま人形型──取る・削る
  4. 折詰め弁当型──詰める
  5. 能面型──構える
  6. 紋章型──凝らせる

俳句、和歌、茶の湯、立花、盆栽、箱庭、扇子弁当から、小さな日本車、電卓、ラジカセ、ウォークマンにいたるまで……言われてみればたしかにモノを小さくするのが日本人は得意です。著者が書くように、漢字の略字を使った文字が平仮名で、一部を使った片仮名であり、漢字文化圏でそんな表音文字はなかったのです。

日本の人間関係が「寄り合い」や「座」であるという指摘も鋭い。現代でも、家、市町村、町内会、自治会などがあり、青年団や講などもあるでしょう。著者は日本の会社を《雇用者と被雇用者が主客一致をなす「座」づくり》(273ページ)だと言います。

寄り合い社会には「内」と「外」という観念が生じます。ウチには優しいけど、ソトには厳しい。本書が書かれたのは日本経済がイケイケの時代で、貿易黒字が国際社会から非難されていました。日本企業はソト(海外)の企業をつぶすのを厭わず、ウチの経済成長を優先したのです。

日本人は縮み志向のときは成功するのに、秀吉の朝鮮出兵、太平洋戦争のころのアジア侵略など、拡大志向に転じたら失敗する。軍事大国が失敗であったように経済大国も先は暗いのではないかと予言する著者は、最後に日本の精神文化を活かせと結んでいます。

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1990年代以降はどうだったでしょうか。たとえば、日本の携帯電話はコンパクトさを競っていましたが、アップルのスマホが登場すると、手許のモニタは徐々に大きくなっていきました。そもそも収縮も拡張もできないOSは日本からは生まれていません。

景気は良くなっていると与党政治家は言いますが、もはや経済大国とは呼べません。日本企業の株価は日銀が買い支えていて、出口が見いだせません。一寸法師がシークレットブーツを履いているようなものです。

エコノミック・アニマルの会社員が一丸として「座」を形成していたのは今は昔。パイが小さくなるにしたがい「座」も小さくなったのでしょうか。ひとつの会社にも正規というウチと、非正規というソトができていますね。

「縮み」志向の日本人 (講談社学術文庫)

「縮み」志向の日本人 (講談社学術文庫)

  • 作者:李 御寧
  • 発売日: 2007/04/11
  • メディア: 文庫
 
「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

  • 作者:土居 健郎
  • 発売日: 2007/05/15
  • メディア: 単行本
 

四季の話

もうすぐ春ですね彼を誘ってみませんか、
春なのにお別れですか、
夏は心の鍵をあまくするわご用心、
夏夏ナツナツココナッツ愛愛アイアイアイランド〜翔んで夏しました、
真夏はゆかい真夏はゆかいワンダーワンダーブギウギ、
九月の雨はつめたくて、
いまはもう秋だれもいない海、
プラタナスの枯葉散る冬の道でプラタナスの散る音に振りかえる、
上野発の夜行列車降りたときから青森駅は雪のなか、
着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます、
なごり雪も降るときを知り……

私が子どものころ、季節がいろんな歌謡曲に歌われてきました(夏はちょっとおかしくなってますね)。季節のイメージは連綿と反復され、日本人に内面化されています。桜を見ると、心がなやぐと同時に、はかなく散る情景に寂しさをおぼえるように。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
(陽光がのどかな春の日に、なぜ桜は散ってしまうのだろう)

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平
(もし世の中に桜がなかったとしたら、春は心のどかだろうに)

おそらく日本人なら共有されている桜のイメージです。もっとも平安の桜は山桜であり、江戸後期からこっちのはソメイヨシノですが。

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ところで。日本を自画自賛するときに「四季がある」という決まり文句があります。私はあれが理解できないんです。英語で、spring、summer、autumn(fall)、winter と習いました。外国にも四季があるから対応する単語があるんですよね? 緯度が同じくらいの国なら気候も似通っているでしょう。外国の方が「日本は梅雨を入れた五季だ」と皮肉をおっしゃいました。俳句の季語では、梅雨は夏だそうです。

むかし、ぼんやりテレビを見ていたら、愛国心を涵養する模擬授業をやっていたのを思い出します。その授業が文科省で採択されたかどうかわかりませんけど、こんな感じでした。

女の先生が懸命に「日本は四季があって美しいでしょ。日本人は幸せでしょ」と力説。模擬授業ですから、多くの先生が見学していて、テレビカメラも入っています。私がもやもやしながら見ていたら、一人の女の子が手を挙げて、小さな声で、こんなことを言いました。「四季があるから幸せだというと、四季のない国の人たちは不幸せということになるから、おかしいと思います」。聡明な子だ、と私は感動しましたが、先生は「日本は四季があって美しいでしょ」とねじこみます。最後は、生徒たちが「四季がある日本は素晴らしい」という作文を書いていました。

一丁上がり。

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われわれは街路樹が黄葉するのを見て「秋だ。物寂しいなあ」と感じるけど、あれは自然を見ているわけではありません。街路樹や公園の樹は誰かが植えた木です。私が走る川沿いは護岸工事されています。日本人は自然なんて滅多に見てないのです。

最近、ハルオ・シラネ『四季の創造』(角川選書)という本を読みました。

著者は1951年東京生まれですが、アメリカ東海岸に育ち、第一言語は英語らしい。だから日本の文化を客観的に眺めることができるんでしょう。

平安時代、貴族が四季のイメージをつくりあげたけど、彼らは狩猟も登山もしたことがなく、庭木などの二次的自然を歌に詠みました。二次的とは人工的につくられた自然という意味です。四季は平城京や平安京の気候に合わせたものだから和歌には雪国や南国の風景や、熊、狼、猪、兎などは出てきません。一方、庶民には里山という二次的自然がありました。田圃は日本の原風景なんていうけど、もちろん誰かの手で改造された光景です。

時代を経るにしたがい季題に決まったイメージが与えられていくのもおもしろい。戦国時代、里村紹巴による連歌論書『連歌至宝抄』(1586年)には、《春でも大風や大雨のときはあるが、「春雨」や「春風」を読むときは、あくまでも春らしく「物しづか」に表現することが「本意」だ》とか、《「夏の夜」はあくまでも「短い」ことを前提に「暮れたらすぐ明ける」などと歌に詠む必要がある》とか書かれているそうです。なんだか窮屈な話ですが、それがむしろ教養なのかもしれません。《確立した連想に依存することは束縛ではなく、むしろ創作のために豊かな土台であった》。

武士の時代が到来したあとも、和歌の文化的価値は衰えることなく権威となり、四季の概念は立花(華道)、茶道、能、歌舞伎などにも継承されていきます。連歌や俳諧も生まれました。近世になると貴族文化の年中行事や花見などのイベントが庶民に浸透しました。

──なるほど、現代では、田舎でも都会でも自然なんてまずお目にかからないわけですけど、テレビやコマーシャルやヒット曲などのメディア、古文の授業、華道、茶道、和菓子、着物の柄、年中行事などで季節のイメージを反復することで、「日本人は自然と調和している」「日本人は季節の移ろいに敏感」だと信じてしまうのかもしれません。

でも、その誤解があるから、日本で環境保護運動が盛り上がらないのではないかとシラネ氏は警鐘を鳴らしています。鋭い指摘でした。