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『ピダハン』の感想(1/2)

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 

学生のとき試写会のチケットをもらって『ミッション』という映画を観ました。南米のインディオに、命をかけてキリスト教を布教する宣教師の話でした。内容の輪郭がボンヤリしているのはキリスト教至上主義っぽくて感心しなかったからです。日本にきた宣教師もそうでしょうけど、どうして命を賭けてまで布教するのか、いまもってよく理解できません。

キリスト教圏の人たちは先住民や狩猟採集民についてどのように感じているんでしょうか。ヒュー・ブロディ『エデンの彼方』にも書かれていましたが、カインがアベルを殺してしまう物語は、農夫が牧夫を殺した、と読めます。農耕民の末裔であるキリスト教信者は、先住民を(殺害することで直接的に、病原菌を持ち込むことで間接的にも)殺して土地を収奪します。親切なことに、キリスト教を布教することで彼らを救済しようとしました。

ダニエル・E・エヴェレット『ピダハン』(みすず書房)を読みました。サブタイトルの《「言語本能」を超える文化と世界観》はやや固そうですけど、未開社会での体験を書いた読み物でもあります。言語のところを飛ばし読みしても充分価値があるはず。

アマゾン奥地で保守的な狩猟採集生活を送るピダハン族と、著者ダニエルとその家族は、都会と往復しながら、30年間、暮らしをともにします。奥さんと娘がマラリアに罹って死に瀕したり、酒に酔ったピダハンに殺すと脅されたり、苛酷な体験もしています。

彼は夏期言語協会(SIL)の一員として派遣されました。『密林の語り部』では夏季言語学研究所と訳されていました。未開の民族の言語を研究して聖書を翻訳し、キリスト教を布教する機関です。

アメリカと往き来しつつ、ダニエルはどの言語にも似ていないピダハン語を研究します。彼らには、数がない、色名がない、チョムスキーのいう再帰(リカージョン)が存在しないことなどを発見し、言語学者や人類学者に衝撃を与えました。

ダニエルはまたピダハン族の心性を科学者として観察します。彼らは体験主義で、自分の見聞しか信じません。知らない過去について話さないことは言葉にも現れていて、彼らは完了形を持ちません。他人の話も、その人が経験したことだけ信じます。彼らには見える精霊や夢の話は直接体験の範疇である一方、天地創造の神話などの物語がありません。

ピダハンの人たちには浮気などがあり、(酒を手に入れたときなど)事件が起きることはありますが、基本的に幸せな人たちです。

ダニエルは聖書を訳し終え、テープに吹き込みましたが、間接体験である聖書の内容をピダハンが信じるはずはありません。ダニエルにもわかっていたはずです。《幸せで満ち足りた人々に、あなた方は迷える羊で救い主たるイエスを必要としているのだと得心させること》はできないのです。

宗教家としてではなく科学者としてダニエルは彼らに共感し、宗教の対極にある価値を見いだしてしまいます。

 ピダハンは断固として有用な実用性に踏みとどまる人々だ。天の上のほうに天国があることを信じないし、地の底に地獄があることも信じない。あるいは、命を賭ける価値のある大義なども認めない。彼らはわたしたちに考える機会をくれる──絶対的なるもののない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。

ダニエルはついにキリスト教を捨ててしまいます。詳しく書かれていませんが、敬虔なクリスチャンである妻とは離婚してしまったようです。

狩猟採集社会について読めば読むほど、白人至上主義、西欧中心主義、キリスト教原理主義、単純な進歩史観などが奇矯に感じられます。白人が教化し、文明化した未開社会はたくさんあります。彼らの文化や伝承された多くの知恵は言葉とともに消え、再現されることはありません。

西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。こちらの見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ》と書く著者に共感しました。

文明が人を幸せにしたと断言できる証拠はないのです。