狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『人間不平等起源論』

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

 

岩波文庫で読み始めたんですけど、冒頭に「へ?」という表現があったので、光文社古典新訳文庫に切り替えました。

前置き

最初は「世界に点在する狩猟採集民のレポートを読んで、自分の生活に採り入れられることないかな〜」と軽く考えていたのです。裸足系ランが好きだったり、炭水化物カットにシンパシーを感じているものですから。

ところが、本を読むうちに狩猟採集民そのものを好きになりまいました。『エデンの彼方』で読んだ文化人類学者コリン・ターンブルの文章を、もう一度孫引きします。

《彼らは人間として賞賛に価する特性をふんだんに発揮する。親切、寛容、思い遣り、情愛、誠実、もてなし心、同情、慈悲、等々。一見、たじたじとなるような美徳の羅列である。事実、これらが美徳だとしたら、出来すぎで鼻持ちならないだろう。ところが、狩人にとってこうした特性は美徳というより、むしろ、生きるための必要条件である。これがなければ、狩猟採集社会は崩壊する》

自然に帰れ! とは書いてないけど

狩猟採集民に関する本によく出てくるので、ルソー『人間不平等起源論』を読んでみました。有名な『社会契約論』はむかし読んだんですけど、こちらは初読。

18世紀後半に書かれた本です。大航海時代が始まって300年くらいでしょうか。ルソーは世界から集められた未開の地の情報を蒐め、人間がそもそもどんな暮らしをし、どんな心を持っていたか、を類推します。現在の人類学・考古学的な見地からすると、誤謬はありますけど、本質を鋭く見抜いています。

野生人には争いがない。所有という概念がない者同士が奪い合う必要はないからだ、とルソーは書いています。狩猟採集生活では、食事を平等分配することや、なにかをコレクションしないことが知られています。身のまわりの動物や植物を摂ってその日暮らしをし、自由を謳歌し、平等に生きていました。

「野生人」には「自由」が備わっている。現代社会も、誰かが誰かの自由を奪ってはならないはずだ……と、ルソーはそう考えました。ただし、有名な「自然に帰れ」とは書かれていません。野生状態を模索してその後の社会状態を相対化し、問題点を解決しようということでしょう。

土地所有があり、農耕に移ると、不自然な長時間労働が始まりました。天候次第で飢饉が起きます。人口が増え、富が生まれ、階級が生じました。

ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである。そのときに、杭を引き抜き、溝を埋め、同胞たちに「この詐欺師の言うことに耳を貸すな。果実はみんなのものだし、土地は誰のものでもない。それを忘れたら、お前たちの身の破滅だ」と叫ぶ人がいたとしたら、人類はどれほど多くの犯罪、戦争、殺戮を免れることができただろう。どれほど多くの惨事と災厄を免れることができただろう。

支配 - 被支配の関係が生まれ、誰かが誰かの自由を奪います。奴隷も生まれます。狩猟採集生活では怪我と老衰以外に病気はなかったのに、人口密集により家畜・ネズミなどから新しい病気が増えていきました。食糧を社会が管理するようになると、農業や牧畜以外の専門職ができ、武器が工夫されました。富める者は、精神的に隷従している民を使って勢力を拡大し、ますます富む。貧しい者は自由を奪われたことを疑うことがなくなり、ますます貧しくなる。 ついには核兵器に手を染める。

ところで、人間はどんな理由で農耕なんて始めたのでしょうか。ルソーは以下のように書きます。《農業などを営なまくても大地は食料を提供してくれることを考えると、農業の役割は、大地から食料を手に入れるというよりも、わたしたちの好みにあう食べ物を、大地に無理やりに生み出させることにあるのだ》……わかりにくいですよね。『炭水化物が人類を滅ぼす』で、著者・夏井睦医師は単刀直入に書いています。なぜ人間は苦労して穀物栽培を始めたのか?

「炭水化物は甘かったから」

野生人・奴隷・再配分

最近の私のテーマは「狩猟採集民」のほかに「精神的な奴隷」や「再配分」でした。

そのうち『社会契約論』も読み直しますが、ここでは、去年読んだ坂井豊貴『多数決を疑う』から『社会契約論』を解説した部分を引用します。

(略)共同体内では財産の一定の再配分が求められる。まずそれは人々の生存を支えるうえで欠かせないからだ。さらに過度の財産的不平等は、人格的にも対等な関係を崩し、高慢、虚栄、卑屈、追従などがはびこる状態へと社会を導いてしまう。そうなれば(略)理性による自治であったものが欲望による支配へと、義務の遂行であったものが力への服従へと、契約前のような状態に戻ってしまうからだ。
(略)では、どの程度の再配分が必要かというと、ルソーは「誰も他者を買うことができず、誰も自分を売らないですむ」程度と表現している。

《「誰も他者を買うことができず、誰も自分を売らないですむ」程度》とは、誰も王様や奴隷に陥らない程度、ということ。

みなさん、最近の日本、おかしなことになっていませんか。

昨年、ハンガリーでは、年400時間の残業認める「奴隷法」に抗議するデモがあり、一部が暴徒化しました。日本の、今年4月に施行された「働き方改革」では、上限時間は年間720時間以内、1カ月100時間未満、対象月と直前の1カ月から5カ月を加えたそれぞれの各期間(2~6カ月)を平均した時間が80時間以内です。珍妙なことに、日本人は誰も怒りません。なんでだろ〜なんでだろ〜。

ルソーは不平等な社会が行きつく先を予想しています。

 専制政治は、このような無秩序と変革のさなかから、次第にその醜悪な頭をもたげ、国家のすべての部分において善良で健全なものと思われる一切のものを貪り、やがては法と人民を足で踏みにじり、共和国の廃墟のうちに、みずからの権力を確立するようになるだろう。この最後の変革にいたる時代は、混乱と災厄の時代だろう。しかしやがてはすべてが怪物に呑みこまれ、人民には法も首長もなく、ただ暴君だけが支配することになる。この瞬間から、いかなる習俗も美徳も意味をもたなくなるだろう。(略)奴隷たちに残された唯一の美徳は、批判せずに服従することだけである。

それ[引用者註=野生人]とは反対に、いつも何かしている都市の市民は汗を流し、たえず動き回り、もっとせわしない仕事を探して苛々しつづけるのである。彼は死ぬまで働く。そして生きることができるようにするために、ときには死に向かって突進することすらある。不死の命を求めて死ぬことだってするのだ。自分の憎んでいる権力者と、自分の軽蔑している金持ちに媚びへつらい、こうした人々に仕える栄誉を手にするためなら、どんなことも厭わない。自分の卑しさと、こうした人々からうける庇護を誇らしげに示し、自分の奴隷状態を自慢して、こうした奴隷状態に加わろうとしない人々を軽蔑する。

自然状態(野生人)と比較しながら、ルソーは文明の帰結を導きました。 ユートピアを出発した人間はディストピアへ行き着く。最後は、オーウェル『一九八四年』を想起させます。「自分の卑しさと、こうした人々からうける庇護を誇らしげに示し、自分の奴隷状態を自慢して、こうした奴隷状態に加わろうとしない人々を軽蔑する」って桜を見る会に集まる人たちのことかしら。

野生人の時代にはみんなに与えられていた自由をいかに取り戻し、幸せに生きるにはどうすればいいか、をルソーは『社会契約論』で示したのでしょう。私が狩猟採集生活を研究するのも、彼らを鏡にして自分ふくむ現代人や社会をとらえなおすためです。

なんか社会が息苦しい。もっと自由に暮らし、走りたい。

エデンの彼方

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炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)

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多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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