狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

『ヒトと文明』……ランニングから遠く(?)離れて

ヒトと文明: 狩猟採集民から現代を見る (ちくま新書1227)

ヒトと文明: 狩猟採集民から現代を見る (ちくま新書1227)

 

尾本惠一『ヒトと文明』という本を読みました。サブタイトルは「狩猟採集民から現代を見る」です。

裸足ランの関心や高炭水化物食への疑問から、狩猟採集生活について調べてみたんです。なぜなら、現代に生きる狩猟採集民は、数百万年続いた人間本来の生活をしているからです。農耕が始まって約1万年、産業革命が起きて数百年で、人間の生活は激変しました。狩猟採集民の生活習慣のなかで、自分のライフスタイルに採り入れられることはないかな、くらいの動機でした。それなのに、いつのまにか彼らの心のありようや迫害された歴史などにまで興味が及んでいきます。

『ヒトと文明』も大変面白い本でした。「狩猟採集民/農耕民」という対立軸から、地球上のほとんどを占める農耕民の末裔たちの社会、すなわち現代文明社会を見直そうという試みです。いまの政治家や経済人も読まないかなあ。

日本の人類学の歴史 

尾本氏は1933年生まれ。冒頭からエッセイ風に日本人類学の歴史について書かれています。氏が大学生のころだから、1950年代のこと、《私が興味を持っていた多様性を研究する「博物学」(自然史)は趣味とされ》、ダーウィンの《進化論は実証できないので科学ではない》と言われたそうです。つまり、合理的・演繹的に体系化されたものは学問で、いろんな証拠を集めて並べ帰納的に類推ことは非学問なのですね。人類史が学問となったのは、遺伝子研究の発達などにより分子人類学が確立されたころのようです。「顔が似ているから、アイヌ人は白人だろう」といった主観的な仮説が科学的に否定されました。

狩猟採集民の定義と特徴

狩猟採集民と農耕民を対峙させて現代文明社会を読み解こうとする後半は、私の興味と完全に合致しています。

狩猟採集民(ハンター・ギャザラー)は、食料獲得者(フォーレジャー)とも呼ばれ、周囲の自然から食料を確保し、たいていイヌ以外の家畜を持ちません。狩猟採集民は以下の3種類に分類できるとのこと。

  1. 非定住で遊動生活をおこなう古典的狩猟採集民=遊動民(ノマド)
  2. 定住し特定の植物の栽培(園芸・園耕)をおこなう者
  3. 大集落や大型建造物を造り、他地域の集団と物資の交易をおこなう「複雑な狩猟採集民」(コンプレックス・ハンター・ギャザラー)または「豊かな食料獲得者」(アフルエント・フォーレジャー)と呼ばれる集団。※彼らは「文明」と混同されることがあるが、農業や都市を持たない。

対する農耕民(ファーマー)という概念の基本は、単一の栽培植物を耕作し「主食」としている点。縄文時代の三内丸山遺跡などはドングリを栽培していたが、彼らの食性は多様で、ドングリは主食でなかったのではないか、と著者は書いています。

長年、人類学者のフィールドワークによって調査された狩猟採集民の特徴(*マークのある項目は、豊かな食料獲得者のなかに例外があることを示す)は、以下のとおり。

  1. 少数者の集団(子どもの出生間隔が比較的長い)。
  2. 広い地域に展開して定住する(低い人口密度)。
  3. 土地所有の観念がない(共同利用)。縄張り意識はある。
  4. 主食がない(多様な食物)。
  5. 食料の保存は一般的ではない。*
  6. 食物の公平な分配と「共食」。平等主義。*
  7. 男女の役割分担(原則として男は狩猟、女は育児や採集)。*
  8. リーダーはいるが、原則として身分・階級制、貧富の差はない。*
  9. 正確な自然の知識と畏敬の念にもとづく「アニミズム」(自然信仰)*
  10. 散発的暴力行為・殺人(とくに男)はあるが、「戦争」はない。*

それぞれの解説は本書を読まれたし。

文明への警鐘

安定的な食糧確保により農耕民は人口を爆発的に増やし、文明を発達させ、狩猟採集民から土地を収奪して世界を制覇しました。ヒトは生態系から飛び出し、古典的狩猟採集民には見られなかった階級・差別・奴隷制などを生み出しました。この歴史を単純に進歩史観でとらえていいのでしょうか。

ジュリアン・ハックスレーが考えた進化の四段階説は、「宇宙の進化」「生物の進化」「人類の進化」「自己規制する進化」、だそうです。

現代の文明は最終段階に達しているように思えるものの、いまだ自己規制がはかられているようには見えません。経済格差、テロと難民、環境破壊や汚染、人権侵害、核保有などの難題を抱えてしまった現代社会……。

著者は《人間性の質的破壊》が不安要素であると書きます。人間性=クオリティ・オブ・ヒューマニティ〈QOH〉は著者の造語で、「自然と文化から見たヒトの原点の表出」とのこと。狩猟採集民は自然と調和し、ヒトとしてふさわしい生き方をしている。ヒトは反省(リフレクション)できる唯一の動物だそうです。本来備わっているヒトの利他性や相互扶助の力を発揮し、文明は自制するときではないか、と著者は訴えています。

思い出したこと

尾本氏は、宇宙開発やリニアモーターカーを造るなんてもういいだろう、と書いています。それで私は、高校のころ読んだ小説家の随筆風小説を想起しました。

環境破壊や毒性のつよい農薬、核利用などで動植物は変化するのではないか、そのうち死滅するのではないか、と妄想する作者がこんなことを書きます。

 私もずっと文明開化の恩恵に浴してきて、いろいろ便宜を得ているのだから、文句は云えぬわけだが、それにしてもこの頃の人間には、暴走の嫌いがあるのではないだろうか。
 私は月旅行なんかしたくない。火星かどこかに土地を持とうなどとは思わない。一発の爆弾で十何万人の人間を殺して何が面白いのか。
 そんなことを考え企て実行するのは、一部の人間である。極く一部の、優れた頭脳と、たくましい意慾とをもった人間の仕業である。そういう人間は、皆、エライ人として尊敬されるのが普通だ。しかし私は、尊敬したくない。軽蔑したい。
 少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰いたい。
 人間は、いずれは絶命するものらしいが、それはそれで仕方ないとして、絶滅への行程を、自分から縮める術(て)もなかろうではないか。

(絶滅が命運だとしても、自ら足を引っ張ることはないではないか)
 私はそんなことを呟くが、その呟きは自分に返ってくるだけである。それでもときどきぶつぶつ言っている。

以上、尾崎一雄「虫も樹も」(講談社文芸文庫『まぼろしの記・虫も樹も』所収)より。1965年発表だそうだから、レイチェル・カーソン『沈黙の春』邦訳の1年後らしい。尾崎は読んでいたんでしょうか。