前回書いた東京高等師範学校附属中学(現・筑波大附属高)時代の永井荷風(本名・壮吉)の話をもう少し。
1947(昭和22)年に書かれた回想「木犀の花」[荷風全集19巻所収]と『新橋夜話』所収の随想「祝盃」[初出:「中央公論」1909(明治42)年5月]を参考にしています。引用文は新仮名にあらためました。
荷風は、数学でしくじったのと病気とで、都合二度落第したらしい。最上級生になった1893(明治26)年。《久しく本校師範学校の校長であった高峰先生が引退されて、新に嘉納先生といふ柔術家が熊本の高等中学校長から転任して来られ》[木犀の花]たのでした。フロックコートではなく紋付袴姿の嘉納治五郎の風采や、全校を威圧するような態度に、荷風は反感を覚えます。
柔道の授業が始まりました。《われわれは稽古着を買いととのえる事を命ぜられ、学課の終った後、毎日1時間ずつ(略)柔術をならわせられることになった。然しわたくしは一時休校した程の病気を幸、これを口実にして欠席届を出した》[木犀の花]。《尋常中学になっても芝居や浄瑠璃、草双紙や小説なぞが好きだ》[祝盃]った荷風が、男くさい硬派な校風に馴染めるはずがない。《(略)当時学生の風習として寒中にも足袋をはかず短い着物に脛を露出し剣舞詩吟琵琶歌をやる蛮勇は、柔弱に育てられた自分の堪え得るところではないので、表面だけでは反抗するが内心は恐れ引込んで運動会や遠足などには決して顔を出さなかった》[祝盃]そうです。
さらには《柔道が始ってから生徒の間にそれまで曾て聞かれた事のない男色の噂が言伝へられ、「賤の小田巻」と云う男色の伝奇などが読まれるやうになった》[木犀の花]。男色は、閉鎖的な男社会の慣習みたいなものだったかもしれません。森鷗外『ヰタ・セクスアリス』にも、寄宿舎内の同性愛が示唆されています。武士における衆道みたいなものでしょうか。柔道と衆道。すみません駄洒落です。
ところで。
前校長・高峰(高嶺秀夫)ばかりか、論語の南摩羽峯(綱紀)やほかの先生もいなくなりました。《猶一層われわれを驚したのは今まで居た古い教師の大半が他校に転任し、いづれも嘉納先生の講道館と云う私塾に関係のある人々に替えられた事であった。其時代には世間に薩長藩閥の語がまだ盛に言伝えられていたので、わたくしは其例証を教育界にも見ることを得たような思をなした。旧校長の高峰先生は会津の出身であったので、同郷の学者南摩先生の引退されたのも故ある事のように思いなされた。》[木犀の花]
明治はクーデター政権であり、金も政治力もない薩長が日本を混乱させた時代だと考えています。一般的に流布している司馬史観とは正反対ですが……。嘉納治五郎は兵庫出身ながら父親が勝海舟と親しいなど、明治政府と結びつきが強かった。
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『いだてん』の東京高等師範学校は、荷風の描いた附属中学から20年近く経っていますし学生の年齢も違いますが、雰囲気は似たようなものだったのではないでしょうか。ただ、スポーツが得意な人と苦手な人で、学校の印象はだいぶん違いそうです。