ランニングにもリベラルアーツを。

 リベラルアーツについて情報を集めるんてすが、人により定義があやふやです。
 ギリシャ・ローマ時代、神学や哲学の下に「自由七科」(文法学、修辞学、論理学と、算術学、幾何学、天文学、音楽)ができた。人を自由にするための学問であった、ということまではだいたいみんな共通しています。
 日本でいうところの一般教養という方もありますが、おそらく違います。

 以下は、私の独断かもしれません。ご注意ください。
 リベラルアーツは世界を識るための基礎です。宇宙をふくめ神の創造した世界や、社会や人間を──ひとことでいえば「真理」を──追究するための土台なのです。
 中世になるとヨーロッパに大学ができました。学問は深化し、どんどん細分化されます。上位にあるのはむろん神学や哲学で、自由七科はその一側面でしたが、コペルニクスやガリレオの出現により神学が揺らぎます。のちにいろんな哲学者が学問分野の再構築を試みたり、フランス革命や産業革命を経験して新しい学問が生まれたりしました。しかし、リベラルアーツが「真理を識るための基礎学問」であり、それを学ぶことで「人を自由にすること」であることに変わりはなかったのです。
 現代では、森羅万象を体系的にとらえようとする近代合理主義精神とリベラルアーツがタッグを組んで、欧米の学問は形成されているのでしょう。
 日本の明治の知識人、たとえば夏目漱石は漢籍や西洋文学や比較文化に精通し、科学や数学や芸術全般に興味を持っていました。『我が輩は猫である』を読めばわかますね。
 ところが、日本全体を見れば、明治期にそれぞれの学問を別個に採り入れたさい、学問の根本的な目的を輸入しなかったか軽視したのです。大学で法律や経済や文学を学んでも、リベラルアーツという概念がないから、いわゆる専門バカが生まれる。最重要である哲学の地位が低い。「すみません、文系なので」という言い訳が口をつく。実学を重んじる人は文学や映画を虚学と馬鹿にし、創作物を鏡にして内省する作業をしない……。
 おそらくこう言えるはずです。
 リベラルアーツとは、学問を横断して考察すること。
 先進医療に倫理が必要だとか言われますが、そもそも世界の真理を識るために勉強してないのだから、学問を自由に横断して考えることができません。文学者で医師であった森鷗外は「高瀬舟」を書きましたけどね。
 今の日本、金持ちばかり潤い、貧困層が圧迫されています。それを解決する道もリベラルアーツしかないのです。しかし、いちじるしく論理性が欠如している現政権にはいくら説明しても無駄です。かててくわえて彼らは、文系科目や基礎学問をないがしろにしています。「学問がなんたるか」のいちばん遠いところにいる連中です。
 今世紀になってヒットしたジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラミ『サピエンス全史』が面白いのは、それらが学問の垣根を自由に飛び越えて得られた精華だからです。そうした著作が日本から生まれることがあるでしょうか。
 
 おっと、ここはランニングに関するブログでした。
 

 私が中高生のころ、体育の先生でさえ運動理論を理解していなかったのです。速筋・遅筋なんてことさえ知らなかった。根性論・精神論が科学を上回っていました。
 図書館や書店を見回してもランニング関係の一般書なんてなかった。プロやハイアマチュアの選手も先人の経験論による練習法にしたがいました。非科学的なトレーニングも多かった。小学生のとき、われわれは体育の時間にウサギ跳びをさせられました。炎天下の運動会の練習では2時間ぶっつづけで給水を禁じられました。
 ところが、時代は変わったのです。
 21世紀の今、書店を覗けば、運動生理学や、スポーツバイオメカニクスによるフォーム解析、栄養学など、さまざまな知見が溢れています。『BORN TO RUN』でも紹介されたダニエル・E・リーバーマンの研究を見れば、持久走は人類学、生物学と無関係ではなさそうです。マラソンや駅伝はスポーツビジネス、ジョギングは予防医学などの面でも語られ得るでしょう。フォームのことを考察するなら、骨格や筋肉の知識が必要です。人がなぜウルトラマラソンに挑戦するのか、なんてことを煎じ詰めれば、形而上学の話にならざるをえません。
 要は、ランニングにもリベラルアーツが必要だと、田中宏暁先生の『ランニングする前に読む本』を読みながらそんなことを考えたのです。

BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族

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