狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

5月21日のランニング

 5月21日、早稲田大学の近くで用事がありました。13時半頃、用事は終了。もちろん走る準備はしています。日焼け止めもマスト。

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 私は早稲田構内を突っ切って西門に出ました。
 どうやら、早稲田大学運動部の新人がお披露目パレードをやっていた模様。大隈講堂前にいたユニフォーム姿の選手も、パレードの選手です。

 14時にジョギング開始。暑い。早稲田通りを西へ。先週のトレイル大会のダメージもまだあります。キロ6分でよちよち進むことに。
 30年近く前の話。
 大学後半の2年間、東西線・落合駅近くで、同級生Fと男二人で共同生活しました。いまどきの言葉なら「ルームシェア」ですね。
 キッチンと風呂をはさんで北と南に六畳の部屋がある、「振り分け」の物件でした。南側はFに譲りましたわ。家賃はひとり4万円じゃなかったかな。男同士の生活はたいへんで、すぐに不仲になりました。おかげで互いに干渉しすぎない生活ができました。友達がくればどちらかの部屋に集まり徹夜で酒を飲んで、エッチな話から文学や哲学の青臭い議論をしたもんです。Fとは卒業後、今でもたまに会うとバカ飲みします。
 周囲は変わっているけど、そのマンションはまだあります。現在、地方に住んでいるFに、マンションの写真をLINEで送信しました。
 返信がきたので、信号待ちのさいやりとりながら、さらに西へ。

 本日のテーマは「Fと太宰治」となりました。
 太宰治ファンのFが上京して最初に住んだのは荻窪です。
 荻窪は一時期太宰が暮らした街。太宰が師と仰いだ井伏鱒二も住んでいました。
 Fは、頑丈なつくりの、風呂なし・トイレ共同・電話取り次ぎの下宿に入居しました。とくに電話の取り次ぎに不便を感じ、1年後、彼は三鷹に転居しました。
 同級生数人で引っ越しを手伝ったあと、三鷹の新居でダラダラしていたときのこと。本が詰まった段ボールから『太宰治 新潮日本文学アルバム』を引っ張り出して読んでいたYが、あるページの写真を指さしていいました。
「太宰が初代と暮らした荻窪の下宿ってさ、Fがさっきまで住んでたとこじゃね?」
「まさか、そんなことないだろ。どれどれ……あ、ほんとだ!」
 さっき引き払った下宿こそ、昭和11年から翌年にかけて、太宰が暮らした碧雲荘だったのです。Fは悔しがりました。(太宰ファンなら自分で気づけよな)
 ちなみに、太宰が住んだのは、Fがいた部屋の、ふたつ隣でした。
 去年、碧雲荘が壊されることになり、移築先を探していると新聞等で話題になりました。久々に寄ってみると、ごらんのように、碧雲荘および周囲一帯が更地になっています。帰宅後調べたところ由布院に移築されるとのこと。ほっ。
 更地の写真をFに送信。

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 下は、2006年に撮った碧雲荘。太宰治と小山初代が間借りしたのは、2階のいちばん左じゃないかな。間違っていたら、太宰ファンの方、教えてください。

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 ウジウジしているので太宰治は私の好みじゃありませんが、やはり筆力はすごい。読めば否応なく引き込まれます。
 ついでに、三鷹まで行くことに。三鷹は太宰治が暮らした最後の街。昭和23年、山崎富栄と入水した玉川上水があります。
 Fが大学2年のとき住んだのは山本有三記念館の近くでした。『真実一路』や『路傍の石』を小学生のころ読んだっけ。

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 早稲田からここまで、たった16キロ。
 大学時代、私はママチャリ駈っていろんな名画座に通ったもんです。三鷹には、三本立ての名画座がありましたよね。桜桃忌がどんなもんか見学するため、二度ほど禅林寺に行ったこともあります。三鷹は行動範囲のうち、西の果て、という感じでしたが、走るようになってみると、ずいぶん近い。
 最後に玉川上水の写真をFに送って、本日はおしまい。
「春の湯」で汗を流し、電車で帰りました。

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太宰治  新潮日本文学アルバム〈19〉

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