読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

東日本大震災から丸4年

2011年3月11日を境に、考え方や人生観が確実に変わりました。

その日、私は自宅の仕事部屋にこもっていました。「あ、地震だ」と感じてから、長い間強い揺れが続きます。「ついに来たのかもしれない」と覚悟を決め、四方の壁を埋め尽くす本棚の一部を押さえていました(そんなことをするやつが圧死するのだと言われました)。テレビを点けると、臨時ニュースで東北が震源地だと言い、九段会館でひとり亡くなったと報じています。2駅先に出かけていた妻に電話しますがつながらず、「いくら方向音痴でも、大人なんだから何とか帰ってくるだろう」とタカをくくっていました(2時間くらいかけて帰ってきました)。東北の被害と福島の原発事故が伝わるまえは、まだ平静だったんです。
大きな津波があったと聞いて慌てました。宮城の海沿いに妻の親戚が大勢住んでいるからです。例の合同庁舎がある町です。数日、親戚の安否確認に追われました。最初のころはテレビは市街の中心部ばかり映していましたし、避難所を取材したとしても誰がそこにいるのか個別のことまでわかりません。Twitter や Google の特設サイトや mixi で断片的に情報を搔き集めました。結局、誰がどこに避難し、誰が流されたかがわかるまで5日以上かかりました。

東京も非日常的で落ち着きません。息苦しい日が続きます。計画停電がおこなわれ、ガソリンスタンドを待つ車が延々列をなし、店から電池や水がなくなり、繁華街のネオンが消えました。
西に行っている場合じゃないと思いながら、かねてから約束があり、19日に広島に帰りました。余震を怖がる妻を東京に置いておくのがかわいそうで、広島にいるあいだ、こまめに連絡をとりました。
広島ではエスカレーターいつものようにが動いていました。やはり東北とは距離があるので雰囲気が違うなと感じました。電池も調達できましたし。

私がジョギングを再開したのは4日後です。走っていいものかどうか悩みながら鬱々と走りました。
「1キロあたり何円分義捐金を払うおう」と呼びかけ、賛同するランナーがたくさんいました。でも、私の場合走ることは遊びですから「東北のために長く遊ぼう」と言われているようで、しっくりこなかった。
停電したエリアを走ると街灯まで消えていて、道の起伏が見えなかったのを覚えています。マラソン大会は軒並み中止になりました。

あれからたった4年。東北はまだ復興していませんし、原発事故はむしろ深刻化しています。街は明るくなりましたが震災の被害のことを思い出さない日はありません。東京オリンピックなんて返上して、予算と人材を復興と原発収束のために充ててくれないかと考えます。
仮設住宅に暮らすなど、多くの方が苦労されています。いま自分になにができるか、そのときどきで考えていきます。