狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

駅伝がマラソンをダメにした?

今年もよろしくお願いいたします。
数年前につくったダメ俳句をひとつ。

  初富士や駿馬は箱根駄馬は多摩

箱根駅伝のテレビ生中継が始まったのは1987年だったようです。私は22歳。
当時、正月2日に高校時代の友人3人と待ち合わせ、酒を飲んでお好み焼き食べて大浴場やサウナつきカプセルホテルに泊まるのが恒例でした。翌朝、大浴場に行くと、大きなテレビに大学生たちが走っている映像が流れていて、たくさんの半裸のおじさんが横になり、タバコをふかしながら見ているのでした。
うっすら二日酔いの状態でテレビを見た私は「大学生の駅伝は昨日もやってたぞ。いったい何日間走るんだ?」と不思議でした。さらに驚いたことに、喫茶店でモーニングを食べ、みんなと別れて昼過ぎに実家に帰ると、大学生たちはまだ走っていたのです。
いまはさすがに、往路や復路、繰り上げスタートやシード権争いなどのルールを理解しましたが、箱根駅伝を見る習慣はありません。たまたまザッピングして、選手のフォームにしばらく見惚れたりはしますけど。

ところで。
生島淳『駅伝がマラソンをダメにした』(光文社新書)という本があります。生島氏自身は箱根駅伝の大ファンなのですが、箱根駅伝やニューイヤー駅伝のマイナス面を書いています(一冊まるごと駅伝の弊害を書いているわけじゃありません。内容に対して煽情的すぎるタイトルは光文社新書というレーベルの特徴です)。
毎年この時期に、この本と似たような論調で箱根駅伝を批判するひとがあり、それを読んで反論する人があります。今年は、毎日新聞に玉木正之さんが「箱根駅伝、スポーツにあらず」(毎日新聞)という文章を書かれていました。それに対して、ネット上で下品な罵声を浴びせる人をたくさん見て気分が悪くなりました。
私は、有望な選手が揃っているとはいえ、関東学連のローカルイベントをことさら大々的に採り上げ(一年中密着取材していませんか?)、けなげな選手の努力をメシの種にする大人たちはどうなのかと感じます。
今年も山登りでフラフラになった選手がいたそうですが、「みんな無事に走り終えてほしい」といいながら、トラブルがあれば視聴率が跳ね上がり、ウハウハ笑う大人がいるにちがいない。テレビも視聴者も安易な物語が好きなのです。
得をするのはテレビ局だけではありません。ちょうど願書を出す時期ですから、箱根で優勝した大学は志願者が増えるんだそうです。いい広報活動になるのですね。
競技生活のすべてを大学時代に捧げ、燃え尽きる選手も多いとか。箱根のスターであっても実業団で埋もれてしまう選手もいます。事実、箱根駅伝のタイムはいまだに更新され、毎年のように区間新記録も生まれる一方、トラックやロードの日本記録は長年停滞しています。マラソンの日本最高記録(2時間6分16秒=高岡寿成選手)はじつに2002年から破られていません。実業団に所属した選手は、マラソンのハイシーズンに正月のニューイヤー駅伝を目標にしてピークを合わせなきゃならないのでマラソンに打ち込めないという事情もあるでしょう。川内優輝選手の活躍が目立つ理由として、箱根の強豪校で猛練習しなかったことや実業団選手でないので駅伝を走らなくていいことがよく挙げられます。もちろん「マラソンなんてどうでもいい。駅伝こそがすべて」という立場であれば万事オッケイなのですが、箱根駅伝を創設した「マラソンの父」金栗四三は今の箱根駅伝を大会の到達点と考えたでしょうか? 
箱根駅伝は高校野球に似ています。高校生投手の多投や真夏の開催が問題視されていますが、マスコミが主催しているため批判を報じません。伝統や根性の美徳を看板にかかげ、選手の体に負担をかけてまでも(なにしろ、高校野球中継に挿まれるニュースでは、アナウンサーが「猛暑のため無用の外出や戸外での運動をお控えください」と言うのです)学校の宣伝に利用する構図もそっくりです。駅伝や高校野球の面白さは認めますが、純粋なスポーツであると同時にエンタテイメント性をそなえた興行であり、興行であるからには何かしら利害関係が生じ、弊害がついてまわります。こたつのなかで蜜柑をむきながら学生の力走を消費するのはかまいませんが、誰かがしつこく問題点を指摘することも必要だと思っています。

駅伝がマラソンをダメにした (光文社新書)

駅伝がマラソンをダメにした (光文社新書)